美術史 二〇〇六


<第三講> ナムジュン・パイク紹介

◆美術史二〇〇四/ナムジュン・パイクとヴィデオ・アートの歴史

「エレクトロニック・スーパーハイウェイ―九〇年代のナムジュン・パイク」(ユーロスペース、一九九五年 )  ※山口市立図書館


年譜

一九三二

ソウル生まれ

一九四九

朝鮮戦争を逃れて香港へ

一九五〇

日本へ移住

一九五六

東京大学文学部美学・美術史学科卒業、渡独

一九五九

デュッセルドルフ、ギャラリー22でパフォーマンス「ジョン・ケージへのオマージュ」、「テープ・レコーダーとピアノのための音楽」

一九六三

西ドイツ、ヴッパータールのパルナス画廊で初個展「音楽の展覧会―エレクトロニック・テレヴィジョン」

一九六四

ニューヨーク、ジャドソン・ホールで、チェロ演奏者シャーロット・モーマンとの共演によるパフォーマンス「ロボット・オペラ」初演

一九六六

アーヘン工科大学で「オペラ・セクストロニック」初演

一九六七

ニューヨークで「オペラ・セクストロニック」を演じ、モーマンとパイク逮捕

一九六八

ニューヨーク近代美術館「機械―機械時代の終わりに見た」展に出品

一九六九

シカゴ現代美術館「電話によるアート」展で「ピアノ・ソナタ」初演

一九七三

《グローバル・グルーヴ》(二八分三〇秒)制作

一九七五

第十三回サンパウロ・ビエンナーレで「アメリカのビデオ・アート」部門に出品

一九七七

ヴィデオ・アーティスト久保田成子と結婚
ドクメンタ6に「テレビ・ガーデン」出品

一九七八

パリ市立近代美術館で個展
東京、ギャルリー・ワタリで個展「ジョン・ケージに捧げる」

一九八一

東京、銀座ソニーサロンで「ビデオ・プログラム」展
ホイットニー・バイエニアルに出品

一九八二

ニューヨーク、ホイットニー美術館で「ナム・ジュン・パイク回顧展」

一九八四

東京都美術館で「ナム・ジュン・パイク展―ヴィデオ・アートを中心に」
ニューヨーク、パリ間衛星中継番組《グッド・モーニング・ミスター・オーウェル》を企画

一九八六

ニューヨーク、東京、ソウル間衛星中継番組《バイ・バイ・キップリング》

一九八七

ドクメンタ8に出品

一九八八

《ラップ・アラウンド・ザ・ワールド》発表

一九九一

ウィーンで個展

一九九二

ソウル国立現代美術館で「ナム・ジュン・パイク回顧展」

一九九三

第四十五回ヴェネツィア・ビエンナーレ、ドイツ館に出品

一九九四

福岡市美術館で「ナム・ジュン・パイク展」

一九九五

第一回光州ビエンナーレ、「インフォ・アート」展を企画

一九九七

ミュンスター彫刻プロジェクトに出品

一九九八

京都賞受賞

二〇〇〇

ニューヨーク、グッゲンハイム美術館で「ナム・ジュン・パイクの世界」展

二〇〇二

アジア・パシフィック・トリエンナーレに出品

二〇〇六

一月二十九日、マイアミの自宅にて逝去

出典:『美学、考』第九号(ワタリウム美術館、二〇〇六年)、七〇―七二頁。

リンク:ナムジュンパイクの経歴と作品


作家の言葉

“「陽」のひとと「陰」のひとがいる。陽のひとは大衆アート(たとえばロック)をつくり、陰のひとは貴族的、エリート的で、スノビッシュなアートをつくる。たとえばヴィジュアル・アートが、こんにちの音楽産業にも相当するような複数システムをつくりあげたとしても、こうした違いはなくならないだろう。”

“何度も死にかかったフルクサスが、何故、年と共に地下水のように続き、強くなりつつあるのか? それはポスト・マルキストであるジョージ・マチュナスが「問題は生産にあるのではなく、配給にあるのである」と直感し、支配的なギャラリー、ミュージアム体系に独力ではむかって、アーティスト自身による配給体系をつくり、アーティストの主体性をアーティストの生産手段のhousingに迄拡大して、80 Wooster Streetに、アメリカ最初のフルクサス・コーポを法的に作って、ソーホーの口火をきったからである。”

“最初の人間が、「これは月だ」とか「これは太陽だ」とか表現しようとしていたとき、それはずいぶん初歩的で、困難だったけれど、また美しかった。ぼくたちもぼくたちなりに、エレクトロニクスを用い、マルチ・ピープルス・ランゲージを通じて、自己を表現しようとしているんです。絵画や音楽はおそらく洗練と円熟のきわみに達し、下り坂なんだな。そうじゃないかもしれないけれど。”

『美学、考』第九号(ワタリウム美術館、二〇〇六年)、二―八頁。


作品紹介


ヴィデオ上映

《グローバル・グルーヴ》、一九七三年

《グッド・モーニング・ミスター・オーウェル》、一九八四年


リンク

GOOD MORNING, MR.ORWELL (1984)