『時の震え』
著者:李禹煥
タイトル:『時の震え』
発行所:小沢書店
発行年:1990年
定価:2060円(本体:2000円)
読了:2000年5月26日

p.40
 今は亡き母もまた、在りし日は遠い山奥の名刹を訪ね廻り、きっとあのように、お釈迦様ウリウハニ(禹煥)を成功させて下さい、ウリウハニに沢山の福を下さい、と腰が立たなくなるまで祈りに祈ったに違いないのだ。親を捨て国を逃れて、何処を飛び廻っているのかも知らない息子の

p.51
 君は命がけの信念とやらを持ちたい? 子供は分からぬといった表情でやんわり笑う。捕らえ所のない子供の笑い顔を見ながら思うのだが、信じたり裏切ったり出来る思想は、どこか毒花に似ていやに美しすぎる。いつの時代でも雑草やうじ虫を蔑む真理観ほど怖いものはない。

p.52-53
 こういうところで、すごみのある創造的な芸術表現を期待するのは、難しいということだろう。皮相的な現象とはいえ、多少の不安だの不足はあっても、人々は平和で安泰で、ほとんど満ち足りた生活に浸り、問題を感じない。成し遂げるべきものなどありはしないようだ。
 国際的に名を挙げている周りの画家たちほど、彼らに、描くべきものがあっての仕事とは思えない。すでに出来上がった世界を、組み替えるかズラす遊び事が関の山だ。

p.80
 エッケルマンによればゲーテは、机の引出しに林檎を詰め込みその腐臭に想像力の刺激を受けながら作品を書き続けたという。いかにも神秘主義者に相応しい退廃的なエロティシズムを感じさせる営みである。

p.82-83
 夢多き孔子は、理想の実現のため、生涯諸国を走り回った。が、ことごとく失敗し、恋にも敗れて、魯国に帰る途中、山中で一輪の蘭に出会い涙したと言う。僕は理想主義者ではないが、こよなく蘭を愛した孔子の気持が分かるような気がるす。蘭は、美しさゆえに世俗にのみ込まれがちであり、気高さゆえに悲哀を招きやすいのかも知れない。

p.108
 このプラスチックのお椀いつ買ったものだ? もう十年以上使ってるわ。気味悪いくらい変化しないものだね。あなたみたいに年甲斐もなく無味乾燥な化け物なのよ。

p.114
 周りへの配慮もテーブル・マナーも知ったことではない、この英雄気取りの傍若無人ぶりを、初めは恥ずかしいと思った。人の意見を聞こうともせず、眼前の様子も一切無視するウルトラ独裁暴力ぶりが、正に打倒すべき当のものであることに、本人は全然気づいていない。
 しかし僕は、ぎらぎらと怒りに燃える彼の圧倒的な野性に、いつの間にか嫉妬を覚えた。

p.115
 変な客が入って来ると、商売どころじゃありません。雰囲気というか空気が淀んでしまう。苦労して並べてある物ばかりでなく、店の空間全体が、なんともちぐはぐに落ち着きがなくなり一切ぶち壊しです。ほらもうこの壺、随分小さく色褪せてみえるでしょう。

p.150
 あのイデアルなアクロポリスの丘とはいささか違う、一つの日常のあっけらかんとした透明な空間がそこに拡がっていた。いつも接していながら、気づかなかった足許の生き生きとした光景との思いがけない出会いだった。いかなる神話作用とも無縁な、ただそこにあるだけで鮮やかに輝いている石片たちの、ぽっかりと開かれた場所のエクスタシーをわたしは見たのである。びっしりと敷いてあるなんの変哲もない白い石のかけらたちは、きらきらと夕陽に照らされて、いかなる幻想をも想起することなく、そのあるがままで充足感に溢れた実在として、すべては自ら息づいていて……。

p.155
 僕の身体が無菌状態に近いせいだけではあるまい。世界に向かってつねに開かれているはずの観念の扉は、あたかもガンディスのすべてを敵にまわしているごとく、水一滴通さぬ完璧さで、しっかりと閉ざされてしまったのである。頭でどんなに憧れたり理解したつもりでも、それは自分の身体に嘘をついているに過ぎない。よしんばこの江に飛び込んだところで、拒絶の観念を破り捨てて江そのものを僕の身体として受け入れられぬ限り、本当に水浴の意味を知ることは不可能だろう。

p.163
 食べ物だけではなく、めちゃくちゃにしつこくて巨大な絵画や、堅くてこってりとしたとてつもない彫刻、聴き分けられぬ音楽や言葉の洪水……。
 これらを、いくら手当たり次第に胃袋や頭に詰め込んだところで、とうていパリの世界は、僕の身体には収まり切らない。連日詰め込み過ぎて、それらに打ちのめされそうだったが、大きな世界を我が手中に入れるためには、これしきのことをと肩を張り、堪えに堪えたつもりがこのざまである。
 ビデにのしかかるようにして吐き出していると、苦しさのためか悔しさのあまりか、眼からは涙がこぼれて仕方がない。吐き物をじっと眺めていた僕は、思わず手を突っ込み、それを掻き分けたり握りしめたりしてみた。

p.175
 テレビを捻ると、遙か天山山脈を越えて、砂嵐吹きすさぶ墟都を行く、長い旅人の群が映る。シルク・ロード……。意志があり夢があり闘いがあり、そして生があり死がある。ぼくの日々からは、あまりに遠い荘厳な世界だ。
 何一つ変わり映えしない、日常の泥濘に漬り果てて、一体どのような命を懸けた夢を描けばいいのか。

p.179
 物が見えすぎると、そこの大事ななにものかが消えてしまう。そして鮮やかすぎるところでは、やたらと自分も剥き出しになりやすく、筆や空間を台無しにしてしまう。このような電灯の下にいると、別にあの仏様たちのように眼を半開きにしなくても、すべてがぼおっと溶け合い、私自身でさえ、物たちと共にいる感じだ。想像力が妖しげに羽をのばす。白いキャンバスの上に、みるみる絵づらと筆と空気が呼び合い、踊り集まる。

p.182
 どれをとっても、実にたわいないままごとというしかない。われながら、大の男の事業にしては、あまりにも面目ない生きざまのようで、ふと恥ずかしくもなる。

p.188
 うまくいっているときは、まるで碁の名人同士が、緊張感溢れる見事な盤面をもよおすように、手順が乱れず、釣り合いの取れた、密度の高い画面を織り成すことが出来る。しかしこれは、どんなに探求を重ね経験を積んでもなお至難の業であって、未熟な生身の人間であるせいか、なかなかびしっと決まってはくれない。筆が行くところを誤ったり、絵具や筆の折り合いが悪くて、どこかでコンセプトとマテリアルが分離してしまいがちである。底に内的な必然性が支えになっている絵は生き生きとしているが、途中でつまずいたり無理して作りあげた絵は屍よろしく、それこそでたらめな泥遊びである。筆の動き一つ一つ、絵具の一滴一滴が、まさしくぼく自身の生命の死活の現象であるわけで、従ってぼくにとって絵とは、これらの要素による画面の気韻なくしては成立しない世界である。

p.192-193
 芸術は、人間をさまざまな出会いの世界に導く。もろもろの夾雑物の手助けがなければ、このややこしいものの結合体である人間を全一に震えさせることは出来ない。だから、拒絶を含まぬきれいごとで調和された作品は、生きた人間と関わりにくいばかりか、嘘っぽく薄っぺらでつまらない。芸術家の才能は、神がかりな完璧さや排除の論理によって発揮されるべきものとは違う。それは、いかに曖昧さと矛盾を抱え込んで、どう人間と響き合う世界を組み立てられるかの力量であると思う。

p.212
 捏ねまわしてうまくいってるつもりで喜んでいるうちは、土はいわばモノにはならない。バカが自分に酔っぱらっているにすぎない。どうにもならぬことに気づくほどに、土が怖くなる。土は僕の顔をしたまま、なかなか土の顔に還ってはくれない。それを知れば知るほど、この意地悪の土を、自分から引き離そうと躍起になり、そのときから大いなる格闘がはじまる。
 [……]別な言い方をすれば、僕は土や火を伴って自分をもっと遠くまで持っていってみたいのである。

p.223
 永劫が見える場所――。私が、無のような空間に一瞬に溶ける時間がここにはある。大理石の破片や柱たちは、たっぷりと無を含み、あたりの空間をこそくっきりと浮かばせていて、転移のなかの私もまた限りなく清々しい。
 こういうものが、本当の彫刻の世界だと思う。彫刻とは、目覚めた空間のことである。空間を占拠するものでなしに、それを開くものをこそ彫刻家の仕事とすべきだと思う。
 芸術家は、空間を作ることは出来ない。なぜなら、それは無の領域だから。空間は初めからそこにある。だが、通常眼にしているのは、凝固した空間の塊である物だけだ。芸術家はさまざまな出会いによって、空間の両義性を知っている。そしていつまでも出会いを続けたく普遍化したいがために、その両義性に着目するのだ。だから芸術家は、見える物に働きかけて、見えない空間との中間項を設けたがる。物が無の浸透を可能にする仕組みへと拘束されてゆく時、そこに彫刻の世界が開かれるといえよう。

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