『「芸術」からの解放』
著者:ブレーズ・ガラン
訳者:小倉正史
タイトル:『「芸術」からの解放 アール・ソシオロジックとは何か?』
発行所:青弓社
発行年:1997年
定価:4000円(税別)
読了:2000年5月4日

p.63
 たぶんポパーは、ASが歴史的観点からは先立つアーティスティックなそれらの運動と比べて、たいした違いはまったくないということをほのめかした。
 私が思うに、このようなものが、アール・ソシオロジックについて美術史家がする言説の代表的な例である。「ほかの人たちがすでにやっている。もっとうまくやっている。新しくない。デジャ=ヴュだ」というわけだ。
p.71
 デュシャンの二つのライトモティーフすなわち公準は、すべてのものはアートであるとアートとは生活であるであった。

p.76
 パフォーマンスを専門とするポルトガルの美術評論家、エジディオ・アルヴァロは、最近、この種のアーティスティックな活動についての定義を書いている。

p.139
 新しい理論が形成されるためには、意識的であろうと無意識的であろうと、その研究行為を駆り立てる欲望、リビドー的欲動が必然的にある。この欲望が理論化の「推進力」の中心であり、マックス・ヴェーバーによって研究者に必要であるとされた「パッションと熱狂」の根源なのだ。だから、形成された一つの理論は、そのような欲望の表現になるのだ。欲望とか欲動とかは、かならずしも言葉で表現できるものではないが、それに由来する理論は、その欲望に「服を着せた」言葉による構築物のようなものと見なすことが可能である。理論とは、正当性を証明するための言説であって、あらゆるイデオロギー的な言説と同様のものなのだ。だから、理論の分析はイデオロギーの分析に属することになるので、理論についての研究をとおしてその欲望の性質が明らかになりうるのである。

p.144
 なぜなら、日常生活とは、歴史と文化によって規定された軌道と社会的な枠組みに従って私たちがエネルギーを送り出すようにさせる一種の首かせであるし、今日の社会が要求するものとはたぶん適合しなくなっている因習的な行為や態度の繰り返しをするように、私たちのうちに組み込まれた遺伝的特性のようなものなのだ。

p.149
 アートに奉仕すること、科学に奉仕することは、しかるべき権力に奉仕することである。マルクーゼが指摘しているとおり、システム内に「断層」や「間隙」や「亀裂」があって、そのなかに、科学者やアーティストが、ともかくも無益に理由なしに自らを犠牲にすることのないように、「異端的」な方法を実行するために逃げ込む場合でさえ、やはり同じように奉仕をすることになるのである。

p.158
 アートは金銭によって腐敗し、エリートの「スリッパを履いた耽美主義者」のためだけのものになっている。そうしたエリートたちは、大学のベンチの上で学んだいくらかの知識の名のもとに、なにが美であり(売れる)、なにが美でない(売れない)かを指し示す権利を横領し、その権利をめぐって彼ら同士のあいだで争うのである。

p.164
 「そのようにして作りあげられた諸モデルは〔……〕難解なコードによってコード化されていて、社会学の周辺部の閉じられた回路の場合でさえ解読不能である。〔……〕そこには、自己色情とも呼びうる奇妙な形式の知識がある」。この自己色情的な知識は、テクノクラートのキャリアに必要な「専門家」とか「エキスパート」という肩書きを鼻にかける以外には、何の役にも立たない。

p.233
 このまったくの文化的分裂症を押しつけたのは、ヨーロッパ(祖先の地)あるいは合衆国(ヨーロッパの後裔にとっての未来の約束の地)から「輸入」されたものだけしか価値あるものとしないスペイン系白人ブルジョアジーであって、その根の深い人種差別から、真に民族的な文化である「インディアン」[インディオも含む]の文化とかかわりのあるものはすべて貶めて、乱暴にそれを過去のものとすることで、逆説的にも、国家統一のシンボルとしているのである。

p.256
 目的のある旅のときは、目的のない旅とは絶対に同じではない。目的がある旅では、出発点と到達点とのあいだに出会うものはすべて二義的な重要性しかもたないが、目的のない旅では、なにもかもが重要になりうる。科学的調査の場合も同じだと私は確信している。

p.285
28 無礼
 ジュネーヴのバスの中で起きたことだ。小さな子どもが座席の上を歩いて座席を汚した。
 乗客のなかの一人の女性が、それについて子どもの母親に注意をした。母親は無愛想にこう答えた。
「マダム、私は自由教育の賛同者です」
 この場面に居合わせた一人の青年がそのとき立ちあがって、母親の前に立ち、彼女に平手打ちをくらわせた。彼は微笑を浮かべながら、「マダム、私も自由教育を受けました」と言った。
29 皮肉
 ウルグアイのゲリラ・グループ「ロス・トゥパマロス」がしたことの多くは、アール・ソシオロジックのロジックに近いものだった。たとえば、ある日彼らは国立銀行を襲ったが、金庫の中の現金ではなくて帳簿を手に入れるためだった。帳簿の項目で汚職と脱税に関係することが明らかな箇所に彼らは赤線を引き、早朝、その帳簿を裁判所の階段に置いたのである……。

p.291
 この方法は、アール・ソシオロジックの方法としては、社会的なコミュニケーションの織目のなかでの「遮断」――分離または変位――を引き起こす術=アートである。自己に対してと特に他者に対しての、新しい可能性を創造する真空を噴出させるための「遮断」である。

p.296
 たとえて言うなら、「アール・ソシオロジックをする」ことは、蝶を捕りに行くようなものである。ここでの蝶とは社会的なパラドクスと矛盾である。蝶を捕まえたら、それを逃がしてはならない。籠の中に入れて、生きたまま人に見せることができなければならない。できれば、それが棲息していた場所においてだ。ストラテジーとは、その「籠」のことである。

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