日本型福祉と新しい「家族福祉」の視点

−フェミニズム批判を踏まえて−



T日本型福祉とは

U「日本型福祉」に対するフェミニズム批判

V「家族福祉」の再構築

V−1 「制度としての家族」から「集団としての家族」へ

V−2 高齢者介護にみる家族福祉の可能性


注釈と文献
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日本型福祉と新しい「家族福祉」の視点

−フェミニズム批判を踏まえて−

中央大学大学院 文学研究科 社会学専攻 博士後期課程1年 鍋山祥子

 

 

T 日本型福祉とは

 日本の従来の福祉政策に対する危機感は、日本の高齢化を取りまく状況に応じて高まっている。例えば、厚生省の人口問題研究所「人口統計資料集」によると、諸外国が100〜45年かけてたどる(1)高齢化社会から高齢社会へ(2)の道のりを、日本はたった24年で経験したことになる。このような他国に例を見ないほどの急速な高齢化、またそれに対する国の対策の遅れのために、われわれは今、近い将来みずからが体験するであろう現実の高齢社会について、不安を感じているのではないだろうか。日本の高齢化問題が注目されている現在、その現状とはどのようなものだろうか。「日本型福祉」という言葉をてがかりに、探っていくことにする。

 そもそも「日本型福祉」という言葉が注目を集めたのは、1979年に出された自由民主党の政策研修叢書『日本型福祉社会』からであろう。その内容を大沢真理は次のようにまとめている。(大沢[1993:205])

 @「ナショナル・ミニマム(3)」の概念は有害無用であって、国家による「救済」はハンディキャップをもつ場合に限る。

 Aリスクは基本的に個人(家族、親類を含む)が負担する。

 B「結果の平等」を追求するような政策は、「堕落の構造」を生む。

 C企業と競争的市場にまかせたほうが効率的な福祉の分野が大きい(たとえば供給住宅)。

 ここで想定されている「日本型福祉」とは、個人の生活を支える安定した家庭と企業を前提にし、さらに個々人が市場から購入できる各種の福祉によってそれを補完し、国家は最終的な保障のみを提供する、というものである。

 また、その後の1986年に『厚生白書』昭和61年版として発表された、社会保障制度の基本原則のなかには、上記の「日本型福祉」の視点をさらに明確化した文章を見ることができる。その部分を以下に引用する。「『自助・互助・公助の役割分担』。『健全な社会』とは、個人の自立・自助が基本で、それを家庭、地域社会が支え、さらに公的部門が支援する『三重構造』の社会である、という理念にもとづく」。

 このように「日本型福祉」として日本の社会福祉政策に組み込まれ、その前提とされているのは、家族内のひとりひとりがそれぞれの成員としての役割をしっかりと担っている「制度としての家族」である。このような考え方からは当然のこととして、女性の社会進出の動向に対して、「人生の安全保障システムとしての家庭を弱体化するのではないか(自由民主党[1979:193-195])」といった懸念が表明されるのである。

 

U 「日本型福祉」に対するフェミニズム批判

 ここでの「人生」とは一体、誰の人生であろうか?という疑問を表明しているのがフェミニストたちである。フェミニストは「日本型福祉」が女性をその「含み資産」として成立しており、福祉(例:高齢者介護)の担い手として明らかに女性(主婦)の存在を「あるもの」として想定している、と批判する。また、高齢者の在宅介護の強調は女性を家庭に閉じ込め、従来の性別役割分業観へひとびとの意識を縛ろうとするものであると主張し、ひいてはそのような女性役割への女性の強要は、社会における女性の低賃金傾向を固定化し、男性中心主義を貫徹し、女性の社会進出を阻むものであると攻撃する。

 このようなフェミニストパースペクティブによる「日本型福祉」批判は、同時に「家族福祉イデオロギー」批判として語られることが多い(4)。ここでの「家族福祉イデオロギー」とは、「人びとが安定した家族生活を営むことを主要な福祉目標とした、家庭基盤の充実をめざす福祉政策」という理念にあらわれている。「家族福祉イデオロギー」のもとでは、福祉対象者には「家族」モデルを用いた援助方法を適用する一方で、伝統的な家族内性別役割モデルを福祉施設などにも拡張すること(5)によって、女性福祉労働の非専門性、低賃金、労働条件の悪さなどを正当化してきた、という問題が指摘される。(井上[1989:254])

 ここで批判されている「家庭基盤の充実をめざす」政策は、さまざまな家族優遇措置に反映されている。例えば、代表的なものに「所得税、住民税等における配偶者控除(6)」「各企業による配偶者手当(家族手当)」「年金の被扶養妻優遇対策(7)」などがある。そしてこれらは、社会・生活・経済の単位として「家族」を規定し、維持することに強い影響力を及ぼすのである(8)。このように「家族」を単位として強化することは「そのなかで営まれている分業とそれに基づく権力関係こそが家庭内外における男女の力関係を形成する(伊田[1993:170-171])」こととなり、つまりは家父長制のしくみを強化することにつながる。そして、このようにさまざまな政策によって強化されている「制度としての家族」は、男女の性別役割分業をその基盤にしている。したがって、フェミニストによる「日本型福祉」批判は、性別役割分業の固定化への異議申し立てであり、それは家父長制と資本制への批判と根を同じくするものなのである。

 

V 「家族福祉」の再構築

V−1 「制度としての家族」から「集団としての家族」へ

 これまで、フェミニストによる「日本型福祉」批判、つまりは「家族福祉イデオロギー」批判を見てきた。しかし最近、家族社会学から「家族福祉の視点」として、新たに提起されている理念がある。その「家族福祉の視点」とは、従来フェミニストが批判してきた「家族福祉イデオロギー」とはどのように異なるものなのだろうか。これ以降において明らかにしていきたい。

 フェミニストが批判してきた「家族福祉イデオロギー」のポイントをいま一度押さえておく。@性別役割分業の肯定による、福祉(世話役割)の担い手としての女性の固定化。A実際の福祉の現場で働く女性の労働が、「女性・母性原理」による当たり前の労働だとみなされることによる、専門性の獲得の困難性への影響力。(専門性が得られないことによる、世話労働の社会的評価の低さ、低賃金、労働条件の悪さ。)

 このような「家族福祉イデオロギー」のもと「福祉」という名目で国家によってなされる家族に対する援助は、つねに何らかの家族への意味づけを伴っている。つまり、ある「理想的な」家族像というものがあって、「不幸にして」その枠から外れてしまった家族に対して、国家が「低下した家族機能を補う」といった形で援助を行なうのである(9)。その考え方からは、当然、家族形態の多様性は否認され、「機能至上主義」の家族が「あるべき理想的家族像」と評価される。

 しかし、ここで考察しようとしている野々山久也氏による定義の「家族福祉の視点」は、フェミニズム批判を受けている「家族福祉イデオロギー」とは正反対の、さらに言えば、新たな福祉政策の可能性を展望するものである。具体的に見ていこう。

 野々山氏が提言する家族福祉とは「家族の多様性を支援し、ライフスタイルとしての多様な家族形態に対しての主体的な選択を保障するという課題を担うもの(野々山[1992:17])」と定義されている。これは「集団としての家族」に対する援助を意味する。したがって「家族福祉とは、家族が一つの社会的分業制度として、社会から期待されている家族固有の機能を家族全体として実行するように、家族の役割実行を援助する一つのサービスである(岡村[1963:87])」という、フェミニズムによって批判される「家族福祉イデオロギー」とは正反対の性格を持つ。わかりやすく言うならば、「制度としての家族」に対する援助から「集団としての家族」に対する援助へ、つまり、国家から規定される「家族」ではなく、私的領域の側から再定義される「家族」の重視へという変革を意味するものである。

 このように野々山氏による家族福祉概念は、「集団としての家族」を福祉による援助対象とみなすところに新しさがある。これまで「児童福祉」「障害者福祉」「老人福祉」という固有の対象への援助を意図する福祉政策があったように、「家族福祉」という概念では、集団として家族を援助していく福祉を目指しているのである。またこの考え方では、権利としての家族福祉という視点が強調される。その展開は現在の社会福祉の動向に沿ったものである。それは、@かつての救貧的な選別主義的福祉サービスから普遍主義的な福祉サービスへ、A施設中心の福祉サービスから在宅中心の福祉サービスへ、B受け身的な措置福祉から主体的な選択へ、という動向である。(野々山[1992:17])

 ひとびとはまず個人として、自分の家族のあり方を決定する自由を持っている、それゆえ、同棲カップルや非婚の母子家庭、同性カップルや意図的無子世帯など、家族形態の選択の自由も個人に任せられるべきである。野々山氏の家族福祉概念は、そのような多様な家族形態の存在を許容し、援助することを可能にする。そしてそれは、結局、ジェンダーを超えて、その家族を営んでいる個々人の生活に対する援助に他ならない。

 繰り返しになるが、「家族福祉」視点の重視には、社会にとって機能的であるが故に奨励される「上から規定される制度としての家族」ではなく、「それぞれの成員にとって、それぞれの形を持って現われる集団としての家族」を維持していくための権利表明という意図がある。この視点においては、これまでフェミニズムが批判してきたような、日本の近代化のなかで「常に何者か(国家にとっては戦力を産み育てる機関であり、企業にとっては労働力の再生産など)に従属する存在」であった家族の再構築が目指されている。つまりここでの新しい「家族福祉」の視点とは、「個々の人間が『家族』と感じる人々のプライベートな関係性を保障する論理(山根[1992:175])」なのである。

 

V−2 高齢者介護にみる家族福祉の可能性

 それでは以下において高齢者介護の問題に焦点を絞って、新しい「家族福祉」の可能性を探ってみる。「日本型福祉」の理念のもとでは「家族が高齢者の面倒を見ることが困難だと判断された場合」に、国家によって家族機能の代替としての福祉が与えらる。このような考え方からは、介護する側による、介護労働への従属の程度の主体的な選択は認められない。介護責任という形で課せられた高齢者の世話の軽減のためには、それこそ家族、あるいは個人が高額の市場サービス商品を購入し、みずからの介護労働の代替とするしかないのである。(10)

 このような日本の現状と比較して現在さかんに取り上げられるのがスウェーデンの高齢者福祉政策である。例えば、現在スウェーデンでは一般に、結婚している子どもが親と同居してその介護をするということは期待されていない(11)。高齢者は訪問可能な範囲に住む子どもたちの頻繁な訪問を受けながら(12)、公的福祉サービスや友人、近隣者による援助を選択して生活をすることができる。スウェーデンでは高齢者が地域の中で主体的な個人として生活することを可能にする、まさしく「個人単位」の福祉サービスが実現しているのである。しかし、そのような公的サービスの充実は他国に例を見ないほどの高負担−高福祉の仕組みの中でこそ可能になっているということも忘れてはならない。

 こうして「日本型福祉」における家族の役割と、「個人単位の社会福祉」における家族の役割を比較してみると、次のように言えるのではないだろうか。これからの日本の高齢者福祉政策を考えるうえで、新しい「家族福祉」の視点は有効である。それはこの視点が、これまでの社会福祉学において考えられてきた「対象となる要援護者(クライエント)個人に対する社会福祉サービス」という視点と、家族社会学などの領域において考えられてきた「制度としての家族がその機能をいかに果たし得るのか」という視点との接合点となる可能性があると思われるからである。

 日本の状況をかえりみるとき、いまだにみずからの介護を家族、とりわけ娘、嫁などの女性の家族員に担ってもらいたいと願う高齢者が多数を占めるのが現状である(13)。家族に何を期待し、また何を期待されているのかという認識は文化、社会によって実にさまざまである。家族によって介護をしてもらいたいと願う高齢者が安心して家族に頼ることを可能にするのも、また、家族の役割として親を介護したいという家族側の希望を援助するのも、過度に家族のみに介護役割を担わせない公的なバックアップがあってこそである。権利としての家族福祉という視点は介護される側と介護する側、双方の主体的な選択を援助するものなのである。

 大きな理想を掲げ、それに向かって社会福祉政策を変換させていくことも重要であるが、現在、助けを必要としている人々に対して何ができるのか、その視点を欠くことなく、今後の社会福祉政策は進めていかなくてはならない。そのためにも、介護される側、介護する側双方の幸福を実現させる「権利としての家族福祉」の実現が目指されるべきである。介護する側もされる側も「自己犠牲」なくして個々の関係を保ち続けられること、それこそが高齢社会となったこれからの日本での高齢者と家族員の目指すべき在り方である。そして、それを可能にするのが新たな「家族福祉」の視点−性別役割分業を基盤にした強制された「制度としての家族」ではなく、個々人がみずからの選択によってその関係性を維持していける「集団としての家族」に対する援助−なのである。