思い出


 科学・技術の最も重要な機能は、人類の物質生活を豊かにすることである。そのことは、貧しい社会での科学・技術観と豊かな社会での科学・技術観とを比較することによって最も明確に分かるであろう。

貧しい時代と貧しい社会での科学・技術観を想像してもらう際の一つの参考資料として、僕と宮沢賢治の科学・技術観を述べてみよう。

 僕は太平洋戦争が終わった年に国民学校に入学した(当時は小学校を国民学校といった)。その頃の日本は極端に貧しかった。今は過剰だと言われている米も、当時は大量に不足していた。今、米が余っているのは、パン、肉、卵などと他に食べるものが豊富にあるからであって、他に食べるものが少なければ今でも米は足りないはずである。

それに当時は、肥料がないので貧弱な稲しかそだたなかったし、農薬がないから、毎年のように病虫害が大発生した。毎年のようにイモチ病やニカメイチュウで大打撃を受けた。われわれ小学生も、登校前に部落ごとに集められ、長い竹竿でニカメイチュウ落としをやらされた。田に石油を入れて、水の表面に油の膜を張り、そこへ害虫を竹竿ではたき落として殺した。

また、戦争中に木を切ってしまって山には木が無かった上に、治水が悪かったから、毎年のように洪水が起こり、田が水に漬かった。このような事情で、米もあまり取れなかった。

 そして、耕運機も除草剤もない当時の農作業は、今では想像できないほどきつかった。子供も貴重な労働力だったから、農繁期には学校は休みになった。農繁期休暇、つまり田植え休みと稲刈り休みが1週間位ずつあった。

仕事の中で一番きつかったのは、田の草取りだった。当時は除草剤がなかったから、田の草は手で取った。真夏の水が湯のように暖まった田で上半身を横にして草を取った。この姿勢だと、太陽が背中を直角に照りつける。ちょうど甲羅干しをしているようなもので、とにかく暑かった。当然汗がでる。汗が目に入ってしみるけど、手は泥だらけだからふけない。その上、尖った稲の葉がほほを刺す。汗があるから痒い。しかし手は泥だらけだから掻けない。

蛭も多かった。足に蛭が一匹吸い付くと、血の臭いのため他の蛭も寄ってきて、バナナのように房状に吸い付く。後で傷口が痒い。

他の作業も同様に大変だった。当時は仕事がきつい上に食料事情が悪かったから、結核になる人が多かった。僕も小学生のとき結核で一年休学したし、家族に他に2人も結核患者がいた。とにかく物が無く仕事がつらかった。

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僕が中学1年のときの国語の教科書に、
グスコー・ブドリの伝記」という宮沢賢治の童話が載っていた。賢治は作家、詩人、花巻農林学校の教師であると同時に、農業技術者でもあった。彼は農民のために2千枚もの肥料の処方箋を書いたという。

この童話は、農業技術者でもあった賢治が、科学・技術というものへの期待と希望をこめて、あるべき技術者像を描いたものだと思う。

彼は、科学・技術こそが災害を防ぎつらい労働を楽にし、生活を豊かにするものである、という信念をもってこの童話を書いたのだと思う。そのあらすじを述べてみよう。


イーハトーブの森の名高いきこりの息子に、グスコー・ブドリという子供がいた。ブドリが十才、妹のネリが7才になったとき、寒さの夏がきた。夏になってもみぞれが降る。秋になっても稲が実らない。

(賢治は東北の人である。東北地方の冷害の悲惨さは、歴史に残る大飢饉がそこで起こり、膨大な数の餓死者がでていることからも分かる。農業技術が低かった当時の東北では、寒さの夏は、直ちに飢饉の到来を意味した。)
 
それは恐怖そのものであった。ブドリの父親は沢山の木を町に運んでは僅かの食料を持帰るだけだった。彼らは、草の根、木の皮も食べてその年は生き延びた。しかし、次の年も寒さの夏だった。本格的な飢饉が到来した。勿論、学校へ行く子供などはいない。ブドリの両親は、仕事もやめて考えこんでいるばかりだった。

ある日、父親は、「森へ行って遊んでくる」と言ってよろよろと家を出て行き2度と帰らなかった。次の夜、母親は、薪を沢山たいて家をパッと明るくした後、「私はお父さんを探しに行く。お前達は戸棚の中の物を少しずつ食べなさい。」と言って、母親もよろよろと出て行った。子供達が後追いしようとすると、「聞き分けのない子だ」と叱りつけて追い返した。そして父親と同様に再び帰らなかった。(両親の遺体は翌年の春に森の中で見つかった。)

不安に我慢できなくなって、まっくらな森の中を一晩中探しまわった子供たちが、翌日、戸棚を開けてみると、そこにはまだ沢山の木の実やソバ粉が残されていた。子供達は両親が、自らの死によって、節約して残した食料で生き延びた。そして、妹のネリはさらわれてしまったが、ブドリは平野へ下りてある百姓に傭われた。

ブドリは寝る暇も無いように働きながら、百姓の死んだ息子の本で勉強した。中でも科学者であるクーボー博士の著書が気に入った。しかし、そこでもまた天候不順が襲い、この百姓も貧乏になってしまった。ある日、百姓はブドリを呼んで、「お前は6年間もよく働いてくれた。しかし自分にはもう礼をするあてがない。どこかでいい運を見つけてくれ。と言って、少しばかりの金と服と靴をくれた。

ブドリは働きながら科学を勉強したい、そして科学によって災害を防ぎ苦しい労働を楽にしたい、そう思ってクーボー博士をたずねた。そして、博士の紹介で火山局に傭われた。

火山局での9年間は、ブドリにとって最も幸せな時期だった。町に向かって爆発しそうだった火山を、皆と協力して、ボ−リングによって海側に爆発させて被害を未然に防いだり、飛行船から窒素肥料を降らせたりもした。

ところが、ブドリが 27 才になったとき、またあの寒さの夏がきた。6月になっても木の芽が出ない。ブドリは居ても立ってもいられなくなり、クーボー博士に相談したところ、カルボナート火山島を爆発させると、そこから噴き出る炭酸ガスの温室効果で、気温が5℃上がる計算だと教えられる。しかし、火山島で爆破スイッチを押す最後の一人は助からない。 

ブドリは上司の技師に火山島爆破を申し出た。それに対し、技師は、その仕事はもう十分に生きた年寄りの自分がやると答えた。しかし、ブドリはその仕事の不確実性を指摘し、失敗に備えて責任者は残るべきだと主張した。そして、火山島に爆破装置がセットされ、船は去り、ブドリは一人残った。彼は爆破装置のスイッチを押した。

火山爆発のキノコ雲が立ち昇り、やがて気温はぐんぐん上がった。そしてその年はほぼ普通の作柄になった。そのため、多くの人達がブドリ一家のような悲惨な運命からまぬがれた。


 
僕は
この童話を読んで感激した。賢治が描いていた状況には、僕の周囲の状況と共通するものがあった。僕は賢治の願いに共感した。その時、僕は技術者になる決心をした。肉体労働と物を作るのが好きだったこともある。

化学でなければならない理由は無かったが、しいて言えば、化学が肥料や農薬の生産を通じて農業に関係が深いように思われたからである。

昔は、生きること、食べ物を得ることは大変むずかしいことだった。そのことは、世界各地の民話や伝説、グリムやアンデルセンなどの古い童話などを読めばよく分かる。それらには、ひどい貧しさや飢えに苦しむ民衆の話が必ずでてくる。それらには極めて低い生活水準のもとで、必死に生きている人々のことが多く語られている。日本の貧しい時代をも体験した僕は、これらの昔の民話を読むと胸が苦しくなる。



 物質生活を豊かにするという科学・技術のもつ機能が意識され始めてからは、科学・技術への期待は、貧しい時代と貧しい場所でほど大きかった。そして、今も貧しい場所でほど大きい。

今の日本は豊かである。しかし全世界的にみれば豊かさとはほど遠い人が多い。何よりも大事な食料のことを考えても、60億の世界総人口のうち、8億人が慢性的な飢えの状態にあり、世界の子供3人に1人が栄養不良だという(1998,ユニセフ)。1日に1ドル以下の収入しかない人は13億人もおり、さらに増えつつある(1997)。

この憂慮される事態を救うためには、科学・技術の更なる発展が必要である。そして科学・技術発展の必要性は、貧しい国々でほど高い。

しかし、現実は逆になっている。科学・技術は、生産力の核心をなすものであって、富と利潤を生み出す力である。だから、科学・技術は、豊かな国々でだけ発達し、その豊かな国々をさらに豊かにしている。科学・技術の発展が貧富の格差を大きくしているという面もある。その結果として、少数の豊かな人々だけで世界の富と資源の大部分を消費している、という現実がある。

このように科学・技術をめぐる状況は単純ではない。しかし、そこには何とかしなければならない現実がある。



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