山口大学 DX人材育成推進室 DX人材育成推進室

本学への寄付

明日香健輔さん連続インタビュー:DX人材を創造的に生きるということ

趣旨説明:近年、「DX人材」という言葉やその「育成」の重要性がよく語られるようになってきました。山大生の皆さんも聞いたことがある人が多いのではないでしょうか。しかし、「DX人材」はともすれば「かくあるべし」と画一的なものとして語られがちです。今回のインタビューではそうした「DX人材」イメージの解体を目指して企画しました。

いま必要なことは、「かくあるべし」という「DX人材」像を超えて、DX人材を自らの視点から創造的に生きることだと考えます。

 そこで、今回は、山口市阿東で様々な取り組みを展開し、まさに「DX人材を創造的に生きる」明日香健輔さんにお話をうかがいました。その内容を全3回にわたる連続インタビュー記事としてここに公開します。ぜひお読みいただき、「DX人材」イメージを問い直すとともに、自らの今後の生き方の参考にしていただければと願っています。

(インタビュー実施日:202383@オンライン)

(聞き手:川尻剛士)

 

明日香健輔さんご経歴:

1964年大阪市生まれ。24歳、株式会社ダダ(システム企画制作会社)入社。27歳、結婚。29歳、退職後、学習塾を開く。30歳、阪神大震災を経験。34歳、株式会社ロイド(デジタルコミック開発会社、副社長)。36歳、株式会社12C設立(指輪センサー開発)。38歳、有限会社First Class設立(システム開発会社)。40歳、AmpdMobile社(ロサンゼルス)。43歳、山口市阿東地域に移住。44歳、リーマンショックを経験。45歳、旧亀山小学校を廃校利用した阿東文庫に参加。50歳、葉葉堂(和菓子屋)継業。53歳、一般社団法人Spedagi Japan設立。

(第一弾)「複業家」という生き方

–––––:本日はお忙しいところ、ありがとうございます。今回のインタビューのテーマは「DX人材を創造的に生きるということ」としました。山口市阿東という人口減少社会で、地域に根を張って挑戦し続ける明日香さんは、まさにそうした方だと思っています。明日香さんのこれまでのライフヒストリーを伺いながら、「DX人材を創造的に生きるということ」の実際を、読者の皆さんにお伝えできたらと思っています。よろしくお願いします。

明日香さん:(以下 明)よろしくお願いします。2007年に阿東の築150年の古民家を譲り受けてここに引っ越してきました。外から入ってくる人もいないような一番奥地の集落で、最初は大変でした。だからもう移住して15年で、今年で16年目になります。当時は私もまだ若いですし、子どもたちも小学生ですね。

 
譲り受けた古民家

移住当時のご家族の写真

右上が明日香さん

–––––:お子さんは、お二人いらっしゃるんですね。

明:はい。もう二人とも成人して上の子が、実は今プログラマーとして私の会社を手伝ってくれています。下の子は今、大学生ですよ。なぜか理系科目はさっぱり点数が取れないのに、なぜか物理をやるというわけのわからないこと言い出して。明日まで試験って言っていたかな。

–––––:明日香さんのお生まれの頃からお伺いしてもよろしいでしょうか。

明:1964年大阪生まれです。今59歳です。システム会社に勤めながら、大学にも行ってという感じで。大学は経営学部を出ました。システム開発をやりながらいろんなことやっていました。会社も3つ作って今残っているは一つだけですけどもね。

もともとは、2002年に大阪の中央区に有限会社FirstClassという会社をつくってそこで本店登記していたんですが、阿東に移り住むのであれば全部それも移そうということで当時10人弱社員がいたんですけど、みんなにはサテライトの契約社員になってくださいということで、こっちに本店を移しました。開発者たちは関西や東京、岡山などに分散して2004年くらいからはそういう体制でやっています。Skypeもその当時から使い始めていたんですが、当時は日本でもあまりなかったんじゃないかなと思います。だから、コロナ禍になっても、何もうち変わらないよねという感じでした。

–––––:25歳で会社に入られたんですかね。それでそこから学習塾を含め、本当にいろいろなお仕事をされていますが、よろしければそれぞれ簡単にお話しいただき、そしてなぜ山口に移住されたのかをお話しいただけますか。

 明:大学に入るのが遅かったんですよ。夜学に通いながら会社に勤めながらで。当時はフレックスタイムという言葉ができた頃で、フレキシブルな働き方がちょうどできるようになる時期でした。私は専門学校で学んで、システム開発やプログラミングの素養は身についていたので、システム開発だったら時間の融通をきかせてもらいながら大学にも行けるだろうと思って、大阪にあるそういう会社に入職して5年近くそこで勤めました。

それで、知り合いが学習塾をやっていたんですが、その人の本業の翻訳業がどうしても忙しくなってしまって「引き継いでくれないか」と私が29歳のときに言われて、私もちょうど仕事を変えようかなと思っていた時期だったので、退職して学習塾を引き継ぎました。これも約5年勤めました。

それで、34歳の時に私の中学の地元の先輩から急に連絡があって、「おまえプログラミングやってたよな」ということで、「ちょっとこんなん作ってくれへん」という相談がありまして、それが実はデジタルコミックなんです。1997年だったんですが、当時はまだ携帯電話なんてPHSが出始めた時期で、iモードはまだ出ていませんでした。携帯電話は、ショートメッセージはあったのかもしれませんけど、話す機能が中心で。あとはポケベルが主流でしたから、今の若い方はポケベルをご存じですかね(笑)、携帯端末でコンテンツを楽しむとか、まだそんなに回線の待機幅もありませんし、そもそも端末自体にそんなものを表示できるスペックもなかったです。そんな中で当時は、サラリーマンが電子手帳を持っていたんですよ。シャープのザウルスとかご存じですかね?

–––––:いや・・・。

明:昔、電子手帳というのがあって、いわゆる小型のコンピュータなんですが、今のiPhoneくらいの大きさですかね。それで画面があって、小さなキーボードもついていたり。サラリーマンがそれを使って、電車の中でスケジュールの管理やメールをチェックしていました。そんな状況のときに、これを使ってコミックコンテンツを見られるようにしたいという話があって。間違いなく、こっちにいくのはいくだろうなとは思っていたんですが、端末の普及度を含めてまだまだ紙には勝てないだろうなと思っていました。ただ、当時CF(コンパクトフラッシュ)というメモリーが主流だったんですけど、電子手帳のメモリーがささるようになっていて、回線はまだISDNというテキストがメインの回線を介してメモリーの中にたくさんコンテンツを入れて、個人端末で楽しむのはありかもしれないなと。ただ、当時は1MBがまだ400円くらいの値段だったので、これが100円を切るようになってくると、コンテンツ媒体としてのメモリーカードはありだなと思っていました。まあ、本当にあれよあれよと、信じられないスピードでメモリーも安くなっていったんですけど。

明:私は、今、自分のことを「複業家」と言っています。本業、家業、副業、事業、副業の複数の業をこなしていますということで。本業はシステムやっているこの会社(有限会社FirstClass)ですね。もともとは先ほど言った地元の先輩とロイドという会社を立ち上げて、まだ時代的に早すぎたということと、資金ショートしてしまってその会社は今はもうないんですが。その当時は「こんなもんで誰が漫画なんか読むかい」と言われましたよ。でも今は1千億円くらいの市場になっているので、もしかしたら音楽よりコミックのほうが粗利は高いかもしれないと思っているんですけどね。

それで、こういうことができるんだということで、いろんな会社さんとお付き合いが増えて、システムのお仕事もいただいくこともあったんですよ。「明日香さん、これ何とかならない?これちょっと手伝ってほしい」という話がきてました。それで、小さな有限会社でも立ち上げて、またぼちぼち仕事をこなしていこうかということで、38歳のときにFirstClassという会社を作ったんです。

明:実はその間に、電子端末、携帯端末にいろんなインターフェースの口があったので、これにいろんなセンサー(CFやGPS等)をつけたらいろんな現場で使えるようになるんじゃないかなと思ったんですよね。そうすれば、いわゆるホワイトカラー層だけのツールではなくて、ブルーカラー層にももっと使ってもらえるようになるんじゃないかと。それで、いろんな会社さんにホワイトカラー層ばかりに売るんじゃなくて、ブルーカラー層の市場を伸ばしませんかという提案ももっていきました。僕らがやったらこんなふうにセンサーをつけて、こんなことできますよと話にいくと、食いついてくれる企業もありました。

で、その延長線上で、私の地元に優秀な後輩がいまして、まだ当時30代前半くらいでしたが、その彼が「指輪センサー」の特許を取ったと言っていました。今だともうApple Watchがありますが、当時はまだそういうものがなかったんです。それで、実は指輪センサーの研究をしていて特許を取ったから何かこれで一緒にやらないかという話になって、面白いね、やろうやろう、と。ロイドという会社とこの12Cという会社を並列して、一緒にやっていました。でもこの2社はもう今はなくなっています。38歳の時に立ち上げたそのシステム開発の会社で、今までずっと食って生きてこられたという感じです。

それでその会社が、今はあんまり言いませんが、MVNOと言って、日本だとdocomoさんとauさん、softbankさんが3大キャリアですが、そうした大手キャリアさんの軒先(インフラ)を借りて、自分たちは鉄塔や電波塔は建てないけれども、キャリアさんにその使用料を支払って、そのインフラをもとに自分たちの携帯端末のサービス、今でいうとY!mobileとかDisney Mobileなんかそうなんですね。ちょうどそういうのがアメリカで立ち上がるという話があって、たまたま携帯端末の仕事を一緒にやっていたときの人が、この会社とつながりがあって、当時は2004年なんですけれども、日本の携帯からいうと端末スペックが4~5年は遅れていました。日本はその当時もう動画(MP4)が動いていましたから、それと比べるとアメリカは遅れていたんですけど、そんなときにこういうMVNOが立ち上がっているんですが、待ち受け画面の中にもういきなりコンテンツなんです。

–––––:あ~。

明:僕たちも見たときにびっくりしましたけどね。えっ待ち受けないの?電話どうすんの?とか言って。でも電話はできるんですが、いや電話なんかどうだっていいんだという感じで、ここで音楽や映像を楽しむ、まだiPhoneが出る前ですから。

–––––:それがメインなんですね。

明日香さんのアメリカでのお仕事

明:当時アメリカで、あちこちのいわゆる開発会社さんとか大手会社さんに相談に行ったらしいんですけど、端末スペックが追いつかないからこんなの絶対できない、3~4年は先だと言われて。それで、日本のほうが当時から携帯は進んでいたので、知り合い経由で日本の私たちのところにお話がきましたが、私も端末スペックがあまりにも非力だから申し訳ないんだけど、「軽自動車でF1レースに出ろと言われてるようなもんだよ」と最初は言ったんです。でも、とにかく試してくれないかと言われて、やるだけやってみたんです。そうすると、いろいろ工夫をすればちゃんと動きまして。それで、ある日、急に電話がかかってきて、「明日香さん、もう出資も全部決まって動き出してるから、すぐにアメリカに来てくれ」と。それで「ええー!?」という話になって。

でも、ちょうどこの話があったぐらいのときに、山口へ移住するかどうかという話もあったんですよ。

–––––:突然ですね。それは、どうして山口に?

明:アメリカ生活もなかなかできることじゃないから行こうとしていたんですが、それを決めた矢先に私の叔父から連絡がありました。実は冒頭の古民家の持ち主が私の叔父だったんですが、「アメリカに行くと聞いたけどほんまか。もうずっと向こう行くの?」という連絡があって、「いやいや、たぶん2~3年たったら帰ってくるよ」と言うと、「その間、荷物はどうするんや」って。「ストレージでも借りて荷物を預けとこうかと思ってるんだけど」と言ったら、「そんな無駄なお金を使うなら、うち今古民家を改装して、でっかい古民家で部屋が2つも3つも余っとるからそこへぶちこんどけ」という話になって、「ええ、ほんま??それはありがたい」とかって言って。

一方で、実はこの会社、1年で契約者数が30万人を超えてもう翌年には100万人を超えるから大成功という話だったんですけれども、突然チャプターイレブンと言って、いわゆる倒産なんですけどもね、黒字倒産してしまって。要は、たくさん契約者数がいて利用はしてもらえたんですが、債権回収が追い付かなかったんです。

–––––:じゃあ、そういうことで最初は山口に。

明:もう荷物を全部山口に送って、さあもうアメリカに動こうというタイミングで、どうも向こうの様子があやしいよ、と。それで、倒産という話になって。で、どうしようかと。山口に荷物は送ったし。

もともと田舎志向が強くて、家内とは結婚する前からずっと日本全国あちこち見に行ったりしてたんです。どこか移住先を探そうとかって。こういうことは、ご縁なんですよね。100%でもダメ、120%でないとなかなかダメで。これが揃わないと、これがないととかってなっちゃうんですよ。どうしても欲が出てしまう。長野県でも何か所かご縁があって、もう決まるかというところで決まらなかったり。

30代くらいになって、こんな田舎探し、自分探しはもうやめようという話に家内となりまして。で、当時奈良に住んでたんですけど、こっちでできることを今一生懸命やって、そのうち何かご縁があったら、そういうタイミングで必ずくるだろうから、そのときに移ることにしようよって。

–––––:ということ言ってるうちに、山口に?

明:そうそう、あっこれたぶんご縁じゃないかな、と。何回か遊びに来ていいところだねと家内も言っていたんで。うんうん、じゃあもうここに移ろうかって、叔父に相談したらじゃあおまえに家売って譲ってやるからという話になって、山口に来たんですよ。

–––––:叔父様が山口ということは、先祖をたどるとわりと山口にご縁があるんでしょうか。

明:叔父は広島に住んでいたんですけども、ちょうど島根県の益田が実はうちの父方の実家なんですよ。実家というか、今でもお墓は益田にあるんです。益田へ来たりとか、萩にも叔母がいますので、山口とは縁があったんですけども、まさか移住先にはつゆのさきすら考えていなかったです。

–––––:お連れ合いは大阪なんですか?

明:そうですよ、大阪です。大阪生まれの大阪育ちで、家内は。まったく縁がなかったわけではないんですけども、移住先の徳佐を全く知りませんでしたからね。

だから、「ええー!?スキー場があって、りんごが採れて、こんな寒いところ!?」と思いましたけど、そういうことがきっかけで移ってきて。山口でできる仕事があるかなと思ってはいたんですけど、結局、山口では今のところ残念ながらシステムの仕事はほとんどないです。やっぱり地域的にパイが非常に小さいので、みんな仕事の取り合いをしてくんですよ。

  • 次回、第二弾では、明日香さんが山口市阿東に来てからのことをお伝えします。
  • 明日香健輔さん連続インタビュー第二弾はこちらから
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