日本の国際美術展(二)
福岡アジア美術トリエンナーレ


授業の目標

福岡アジア美術トリエンナーレの10年を振り返る。

国際美術展開催の意義について考える。


1.アジア美術展

1979年アジア美術展第1部 近代アジアの美術/1980年アジア美術展第2部 アジア現代美術展

第2回〜第4回アジア美術展


2.福岡アジア美術トリエンナーレ

第1回〜第4回福岡アジア美術トリエンナーレ

 2−1. 第3回福岡アジア美術トリエンナーレ2005

1. 内覧会風景(会場入口)

2. 塩田千春《窓の家:第3の皮膚》 2005年

3. バニ・アビディ(パキスタン)《愛国歌》(1)(2) 2001年

4. ティファニー・チュン(ベトナム)《ふわふわの町》 2005年

5. ティアルマ・ダメ・ルス・シライット(インドネシア)「ファッション・パフォーマンス」

6. 角孝政《不思議博物館》 2005年

 2−2.第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009

1. 黄永砅(ホワン・ヨンピン、中国)《2002年6月11日、ジョージ5世の夢》 2002年

2. 黄永砅(ホワン・ヨンピン)《ニシキヘビの尾》、2000年

3. ディン・チ・レ(ベトナム)《南シナ海ピシュクン》 2009年

4. リアン・セコン(カンボジア)《踊るマカラ in 福岡》

5. 冷泉荘会場


3.福岡アジア美術トリエンナーレの10年

 3−1.「サバルタン」としての日本

  第1回福岡アジア美術トリエンナーレ1999

後藤新治(西南学院大学) 「『アジア美術』は語ることができるか」

↑ガヤトリ・スピヴァク「サバルタンは語ることができるか」

 サバルタン(Subaltern)
 =従属的な地位の人、次官、副官、属官
 =歴史的に沈黙させられてきた人びと、第三世界の女性

美術専門小委員会(Curatorial Subcommittee)
 

“自らを表象するが代表することのできない「アジアのアーティスト」(現実には複雑に階層化している)に代わって、アジア人選考者としての私が、「アジア」と「西洋」の二重の仮面を巧妙に使い分け、彼ら彼女らを選別し、序列化し、代表し、表象し、定義することで、私は自らを透明な存在として表象する。レイ・チョウはこの事態を「表象としての暴力」と呼び、特権的な研究者が一方でエリート主義を追求しながら、他方で「サバルタンを救済するのだ」と公言してはばからない態度をきびしく非難している。サバルタンの声は二度剥奪される。一度目は植民地時代に経済的な機会を奪われて、二度目は今日自らの言語を奪われて。”

後藤新治「「アジア美術」は語ることができるか」、『第1回福岡アジア美術トリエンナーレ1999(第5回アジア美術展)』図録(福岡アジア美術館、1999年)、285頁。

アジア現代美術ブーム

「アゲインスト・ネイチャー」/「戦後日本の前衛美術」

  バブル崩壊(1990〜1992年頃)以後

1997年 ドクメンタX 日本人作家の招待なし

1998年 ビル・クリントンの日本訪問なし

ジャパン・バッシングからジャパン・パッシングへ

 =日本叩きから日本外し、日本無視へ

公立美術館や文化事業に対する予算削減の波

 3−2.水平的国際主義

「国際主義とは、常に先進諸国から第三諸国へと天下り式に伝えられるものなのだろうか? 」

「あるいは、私たちは一種の水平的国際主義(a lateral internationalism)、つまり多種多様な社会や文化が自由に呼応し合い、自由な交流という条件下で思考と芸術のさまざまなパターンを収得し国際化していくといったような国際主義に到達できるだろうか? 」

ランジット・ホースコテー「世界への回帰―インド現代美術における不安と快活」、『国際シンポジウム1999「アジアの美術―未来への視点 発表論文」』(国際交流基金アジアセンター、1999年)、18頁。または、古市保子編集『国際シンポジウム1999「アジアの美術―未来への視点 報告書」』(国際交流基金アジアセンター、2000年)、23頁。

 3−3.アジア美術の台頭

“「アジア現代美術」のかつての状況(作品が売れない、制作・発表場所がない、表現の自由がない、国内で認知されない、発信メディアや支援してくれるキュレーターやギャラリーがない、国際的な舞台で発表する機会がない…)からは想像を絶するものだ。
                        ……(中略)……
 今や、「アジア現代美術」は国際的に「認知される」段階をはるかに超えて、「勝ち組」となったアジア作家たちが国際美術業界をリードしているようにすら見える。”

黒田雷児「(アジア美術の)明日は、どっちだ?」、『第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009』図録(福岡アジア美術館、2009年)、10-11頁。


“アジアの時代になった。80年代当時の状況から考えると、驚くべき変化である。当時、アジアの美術は、欧米の美術館で取り上げられる可能性はほとんどなかった。しかし今日では、世界の各所でアジアの現代美術が花盛りである。”

南條史生「福岡アジア美術館―アジアの美術と世界」、『第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009』図録(福岡アジア美術館、2009年)、205頁。


“アジア現代美術に特化した美術館を擁する世界でも初めての都市

21世紀のアジア地域におけるアートの概念を再定義することに貢献した

他に類をみないアジア現代美術のコレクションを構築した

世界的にみてもアジア現代美術の最も包括的なコレクションである

他のどんな国のどんな美術館よりも、アジア美術という範囲においてはもっとも包括的でありつづけてきた”

キャロライン・ターナー「未来を想像すること/過去と現在とを理解すること」、『第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009』図録(福岡アジア美術館、2009年)、208頁。


福岡の展覧会を私たちの手本として語っていない理由は、実に論理的な帰結による。私たちはAPT(アジア太平洋現代美術トライエニアル)の企画段階の初期には、ほとんど福岡の実験的な試みについて知らなかったのだし、知っていたことと言えば1980年代のアジア美術展の最初期のものについての情報に限られていた。今日、振り返って見ると、90年代に2つの展覧会がいかにそっくりだったかという点は興味深いが、それは緊密な協力関係に根ざしたものではない。そうした関係は、90年代後半に築かれたものである。”

Caroline Turner, "Cultural Transformations in the Asia-Pacific: The Asia-Pacific Triennial and The Fukuoka Triennale Compared," in John Clark et al. (eds.), Eye of the Beholder: Reception, Audience, and Practice of Modern Asian Art (Sydney: Wild Peony, 2006): 235.

  福岡アジア美術トリエンナーレの10年間の活動を通して獲得されたもの

=アジアの美術作品や美術家に対する注目

=日本の美術館や、そこで企画された美術展、さらには、そこで働く学芸員や、大学の美術研究者の発言権や発言力


4.まとめ

・福岡アジア美術トリエンナーレの10年

―1990年代、福岡の試みは「知られていない」

―声を奪われた者としてのアジアの美術家や美術関係者

―2009年の時点では、「勝ち組」という評価も

―「先駆的な試み」として高く評価される

・国際美術展開催の意義

―世界的な美術動向における発言権や発言力の獲得

―文化の「先進国から第三世界へ」といった天下り式でない、文化交流

―水平的国際主義の実現


過去の特殊講義へのリンク

・特殊講義2009(後期) 福岡アジア美術トリエンナーレ

・特殊講義2007(前期) 国際美術展の歴史(二)アジア

・特殊講義2006(前期) 第三回福岡アジア美術トリエンナーレ二〇〇五紹介福岡アジア美術トリエンナーレをめぐって

・特殊講義2005(後期) 福岡アジア美術トリエンナーレ二〇〇五