『現代美術の迷路』
著者:ヴィクター・バーギン
訳者:室井尚+酒井信雄
タイトル:『現代美術の迷路』
発行所:勁草書房
発行年:1994年
定価:3399円(本体:3300円)
読了:1996年頃?

p.4
 したがって、グリーンバーグが「キッチュ」という言葉を一九三〇年代のロシア、ドイツ、イタリアなどの官製芸術に適用したのは正しいと言える。これらの国では感傷的で宣伝的な内容が、もたいぶって因習的な「芸術的」装いのもとに提示されていた。

p.18
 「運動」は、モダニズムを正当化するグリーンバーグの中心概念であり、その意味でこの言葉を少し詳細に検討してみる価値がある。
 グリーンバーグが使う運動モデルは、芸術の歴史的動きを示すのによく用いられるものだが、それは「問題/解決」モデルと呼べるものである。

p.19
 この目的をもつ運動という幻想が、同時にまたそれに付随する挫折の継続としても記述されることになり、浪費と一時性の中から保存と連続性がもたらされ、それはエドガー・ウィントが(これもルネサンスについて語った)「誰に仕えることもなく、そのすべての問題をその内部から提示してくる誇り高い芸術」と呼んだものの土台を提示することになる。

p.24
 それゆえ、アルチュセールは次のように言う。「あらゆるイデオロギーは具体的個人を主体として『構成』するという機能をもっており、それがイデオロギーを定義するものなのだ」。イデオロギーとは、それ自体が「諸個人のその現実の生存条件への想像的な関係の『再現=表象』なのである」。アルチュセールの再現=表象の構造のメタファーにおいては、「窓」が鏡となる。つまり、イデオロギーは主体に対し鏡像的な関係にあるのだ。

p.35
 巡回した多くの作品は「抽象」芸術であって、かつてはそれが保守的な政治家たちの実利主義に反するというだけの理由で、政治的に壊乱的であるとみなされていたものであった。だが次第に抽象は、官製のソヴィエト社会主義リアリズムに対抗してそれが確立した違いのために、「ボルシェヴィズム」ではなく、「表現の自由」を意味するようになってきたのである(エーコはこのようなイデオロギー的評価の転倒のメカニズムを、コード切り替えという用語で記述したことがある)。

p.38
 しかしながら、フォルマリストが(取り替えしがつかないほども長く)空白のっまにしておいた間隙を記号論的理論一般が満たし、したがって状況全般を変えつつあるこの時に、もし芸術理論/批評/歴史学が「古典的」記号論の幅広い関心(広告、写真なども含む)から退却するとしたら残念なことである。

p.39
 だが、そんな時でさえも普通の人が感じる憤りは、こうした芸術のパトロンたちに対し彼らが抱く恐れによって沈黙させられているのである。彼らがパトロンたちの管理する社会秩序に不満をもつようになったときにはじめて、彼らはパトロンたちの文化を批判し始めることになるのだ。

p.41
 ここまで描いてきた諸立場は、いずれも、芸術家や知識人を、現実的なものと想像的なもの、科学とイデオロギーのあいだの分裂における常に特権的な陣営の側に位置づけるような傾向をもっていた。このような確信が、芸術「理論家」と芸術「実践者」の両方にとって(このような労働分割が、問題の一部をなすものであるが)、共通の現在の問題を見えなくしてしまうのである。一つの階級が(そして/あるいは、「インテリゲンチャ」が)、それ自身の<名前>を伝承していく場所としての文化一般の流用は現在も続いているのである。

p.46
 ここに至ってわれわれは、二つのイデオロギー――「ヒューマニズム」と、フランスの哲学者ジャック・デリダの言う「ロゴス中心主義」――が融合する保守主義の美学の根底に触れることになる。

p.47
 ヒューマニズムが前提とする「個人」とは、自己認識と何ものにも還元しえない「人間性」という核――つまり、すべての人間が分有し、歴史を経て次第に完成・実現化へと向かう「人間の本質」――を有する自律的な存在である。こうした個人は、たとえば、クラーク卿の『文明』や、ブロノウスキー博士の『人間の向上』といったテレビ番組の主人公でおなじみのものであり、過去の歴史を「偉大なる男たち」(原文ママ)のパレードと見たがる芸術史の中心的役割を演じているのもこの個人であるのは言うまでもない。

p.48
  「ロゴス中心主義」はデリダの造語だが、この言葉によってデリダは小説、映画、写真、絵画といった「再現=表象」の意味に関する問いのすべてを、それらの背後に想定され、それらを根拠づける単一の現前――「作者」であれ、「現実」、「歴史」、「時代精神」、「構造」であれ――に差し向けようとするわれわれの傾向を言い表そうとした。

p.49
 意味に関する問いのすべては特権的起源に差し向けられるべきであるというデリダの言うところの「ロゴス中心主義」、そして人間は強制されることなく十全に自己と自己表現を保有するという「ヒューマニズム」の「人間」観、この両者を合わせて考えれば、なぜ絵画が保守主義美学のみならず、保守主義美学ほどではないにしろ左翼においてさえも、かくも高い評価を受けつづけてきたのか、その理由の一端を理解することができるだろう。

p.54
 この写真的イメージには映画とテレビも含まれるが、それらは「スチール」写真とともに、私が別のところで「統合化された視覚的支配体制」と呼んだものを形成している。それは基本的テクノロジーのレベルで統合化され、われわれの社会の重要な課題と人物を相互に交換・強化し合うという意味で神話のレベルで統合化され、歴史上まったく先例がない程に幻覚的イメージに浸されたわれわれの社会が幻想的になっているという意味で、精神のレベルで統合化された支配体制なのだ。

p.63
 社会が家父長制的であるからこそ、われわれの社会形態とその文化的産物を考える際に、男性の身体を前提とするフロイト本来のフェティシズムの記述を心に留め置く必要があるのだと私は思う。フロイトの説明によると、フェティッシュは還元不可能な取り替えのきかない唯一無二のものとして畏怖の対象になる。さらにそれは固定した性質をもり、決して時間的・空間的に拡散・拡大されることはなく、いわば枠組みを与えられている。いかにこれが芸術作品と類似性をもつかは指摘するまでもない。フェティッシュは、記号(より正確にはシニフィアン)の中でも独特のものであり、それは逆説的にもそれが指し示すまさにその存在――不在の女性のペニス――を否定するために存在する。ためにそれは、ひたすら自己充足的であり、決して記号ではなく、完全に一つのものになりすます。ここでも、芸術作品との類似性は明らかである。

p.95
 あらかじめ構成された言説の場、それが写真の実質的な「作者」であり、写真も写真家も一様にこの言説の場によって生み出されたものなのだ。そして写真を見る者も、見る行為において同じくこの言説の産物となるのだ。このことをロラン・バルトは次のように言う。
 テクストに接近するこの私は、すでに他の複数のテクストであるのだ。……主観性は、それによってテクストを満たすことのできる充溢した何かであると一般的には思われている。しかしその偽りの豊かさは、「私」を作り上げているすべてのコードの航跡でしかないのだ。したがって、私の主観性とは、結局は類型化された一般性をもつものでしかない。

p.98-99
 ベルは、一九一三年次のように書き記している。「芸術作品を鑑賞するには、形式に対する感覚さえあればよい……それ以外はすべて、作品鑑賞には無関係のものである」。さらに彼は、「創造された形式を、模写されたものであるかのように見なし、絵をまるで写真のように扱う」者たちへの不満をもらしてもいる。かくして写真は、芸術における再現=表象の問題を西欧において過去のものにしてしまった動きの中で、十九世紀と現代とのあいだにキュビスムが切り開いた分界線の向こう側、いわゆる「好ましくない」側へと引き渡されてしまうことになったのだ。

p.102
 映画のアナロジーを用いて言えば、個々の写真は、一連の心理的「パン」や「フェーディング」の起源点となり、写真の場面を無意識の「別の場面」の空間へと、そしてとりわけ重要なのは大衆の前−意識の場面、すなわち言説・言語の場面へと置き換える換喩と暗喩の連鎖の起源点となるということなのである。

p.106-107
 当時の彼らの研究によって、すべての写真が依拠する単一の意味体系(英語で書かれたすべてのテクストが、究極的には英語という言語に依拠しているという意味で)などというものはないこと、また写真が依拠しうるのは、むしろ異種混交的な諸コードの複合体であることが明らかになった。つまり、一枚の写真の意味は、(たとえば、身振りのコード、照明のコードなどの)複数のコードに基づいて生まれるのであり、その際のコードの数と種類はそれぞれの写真によって異なるが、写真全般に特有のコードと呼べるものはきわめてわずかしかないということなのである。(あえて「基づいて生まれる」と強調するのは、複数のコードを検討しさえすれば意味作用のすべてが汲み尽くされるとは決して言えないからである。)

p.109-110
 バルトが言うには、<作者>という概念は、
 批評にとって実に都合のよい概念である。そのおかげで批評は、作品の背後に<作者>(または、それと三位一体のもの、つまり、社会・歴史・心理・自由)を発見することを自身の重要な任務とすることになる。<作者>が見いだされれば、テクストは「説明された」ことになり、批評家が勝利を治めたことになる。したがって、<作者>の支配する時代が、歴史的に<批評家>の支配する時代でもあったのも不思議ではない。(『イメージ・音楽・テクスト』)

p.114
 差し当たって、バルトの言う「コードのないメッセージ」のもつ「写真のパラドックス」に関してわれわれが覚えておくべきことは、現実には何のパラドックスもないということ、パラドックスは現実が記述されるそのされ方によってのみ生じるだけだということである。つまり、パラドックスは、純粋に言語的(より厳密に言えば、論理的)実体であるということである。

p.132-133
 『神話作用』の中でバルトは問い掛ける。
 ではなぜ批評家は周期的にその無力、または無理解を公言するのか? まさか謙遜からではあるまい。実存主義が皆目わからないと告白するときの批評家ほど気楽な人種はいないのだ。……また、詩というものは筆舌に尽くせないことを弁護する者ほど勇ましくみえるものもないのだ。
 バルトの答えはこうだ。「こうした公言ができるのは、かりに理解できないと告白しても疑われるのは著者の明晰さであり、自分の頭脳ではないと批評家が思い込んでいるからなのだ」。つまるところ、それは実際には次のように言うことで、大衆との共謀関係を求めようとするやり方なのである――「知的であることを仕事とするこの私にして、これがまったく理解できないのです。さて、おそらくあなた方も全然わからないでしょう。ということは、あなた方は私と同じくらい知的だということなのですよ」、と(『神話作用』)。

p.164
 映画を観おわったあと、ただ一つのイメージ、あるいは短いイメージの連なりしか記憶に残っていないということが私にはよくあるのだ。物質的実体である映画のスチール。心的実体である記憶のイメージ。この両者に共通するのは、ともに全体から抽出された断片でありながらも、ある種の自律的な表象作用をもつに至った断片であるということである。

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