『隠者の楽しみ』
著者:鷲田小彌太
タイトル:『新・仕事人間の哲学 隠者の楽しみ』
発行所:青春出版社
発行年:1997年
定価:810円(税別)
読了:1997年5月頃?

p.5
 都会から遠く離れて、都会と同じ仕事を、ずっと快適にこなすことができる、これが私の得た貴重な体験です。

p.32-33
 週休2日制が普通になりました。有給休暇も入れれば、年の3分の1は自由にできる時間です。

p.35
 逆に、日本人は、日本国内に職を見いだすことができず、他国の市場に仕事場を求めなくてはならなくなります。
 [……]
 私が考える現在の隠者とは、この仕事の新時代、現在従事している仕事や生き方に満足せず、あるいは、しがみつかず、新しい仕事や生き方の開拓に向かって日々努力している、しようとする人のことです。

p.44
 自分の力で情報を集めたり、自分でアイデアを出そう、方策をひねり出そうとする前に、仲間で集まって、知恵を出し合おうとします。集団認識ですね。文殊の知恵です。それができなければ、しかるべき人に聞きます。教わろうとします。そうすることで、自分の能力を開発するチャンスを、他人に任せてしまうのですね。あたら、群れると弱くなる、という原則のままに生きるのです。

p.57
 そして、もっと重要なのは、過疎地での居住空間を快適にする、とりわけ仕事場を充実する工夫をする、ということです。たとえ職場に行くことがあっても、それは打ち合わせとかプラン確認のためであって、メインの仕事自体を行うためではない、という生き方を可能にする程度の自宅の仕事場の充実を図る、ということです。

p.67
 問題はこうです。日本には個人の能力を率先して高めてくれるようなシステムはありません。それは、個人が自分の力ですべきもの、と「期待」されています(単なる「期待」ですから、その能力を獲得したからといって、その成果に見合う報酬は期待できません)。だから、自己資力がなければ自己投資はできません。大学や研究所や企業で用意してくれるものは、アベレージ能力のためのものです。

p.70-71
 はじめは、暫定的なこととして、自分の能力を特定のものに特化しようとしてもかまいません。むしろ、たいていは、そうするしかないでしょう。しかし、その一種類の仕事のために、自分の全エネルギーを消費しないことです。できれば、エネルギーを最大にして、半分のエネルギーで当面の仕事をこなし、ゼネラルな力を蓄えることに後の半分のエネルギーを回す、というやり方で進むといいでしょう。

p.81
 「原始蓄積」の経験のない人は、つまり、自己投資をなんらかの理由でパスしたか、そうせざるをえなかった人は、自分を知的あるいは技術的に高めるために自分の費用をつぎ込むことを、よほどのことがないかぎり、しないものです。「原始蓄積」のための努力を怠ったもっとも大きな結果は、それ以降の人生で、自己投資する「欲望」を持ちえなくなる、ということです。
 若いときには本を買った、読んだが、仕事が忙しく、最近は買いもしないし、ましてや読みもしない、という人がいますね。俺の若いころは勉強したものだ、ものを真剣に考えたものだ。しかし、今は……という人を、私はほとんど信用していません。そういう人は、よく観察してみればわかりますが、若いときも現在も、自己投資もなく学ぶこともない人、そういう経験を持ったことのない人、だと考えて間違いありません。

p.87
 私は、若くして定職を持たない方がいい、持った場合も、それにこだわらない方がいい、という意見です。[……]というのも、「定職」は、単なる金稼ぎの場ではなく、その人のアイデンティティを形成する基本となるからなんです。「定職」で安定すると、その人の可能性としての能力が殺される、ということを知っておいてください。

p.89
 ですから、35歳で「不満」期を迎えたら、職を辞めるかどうかは別として、生じた余裕を、まったく別な仕事のための能力開発に用いるべきだというのが私の意見です。安定を不安に置き換えるわけです。
 別に35歳だけに転機があるわけではありません。現場の一線から退かなければならない40代後半、定年が見えてきた50代の後半、いやがおうにも老後を考えなければならない60代後半、老後をどう生き延びるかという70代後半、個人差はあるとはいえ、各年齢期に「転機」は何度でもやってくるのです。
 この転機におびえていても始まりません。もっとも困るのは、転機に気がつかない能天気や、転機など無視してしまえ、なるようにしかならない、という居直りです。

p.92
 人の能力を金で計るのは、人間を商品とみなしているからです。商品であるということは、売り買いに耐えることができるということです。社会的に通用するということですね。したがって、人間は、商品として評価されて、はじめて、なにものかなんだ、ということを心に留めておいてください。これは、守銭奴になれ、といっているのであはりません。あなたの能力が社会的価値として通用する有用性を持っているということが、商品であることの意味だからです。
 価値のある人生とは、まさに、価格のつく人生でもあるのです。

p.95-96
 竜馬は、学歴のなさを剣術で突破し、剣術で達した「頂」を、一革命家に身を投じることで捨て、革命家として最高権力を手中にしたとき、その権力をこともなげに捨て、一私人に転じる、という複数の生き方を短い間に選びとりました。
 もっとも、剣術家になっても学業はありましたし、革命家になっても生きた学問や剣の力が必要でしたし、何よりも竜馬の革命家としての独自性は、「ビジネス」を革命に持ち込んだことにある、というように、竜馬がたどったすべてのコースは、そのつど終わって新しいものが始まるのではなく、重層的に重なり合って、彼の独特の人生コースを形成している、といったらいいでしょう。

p.99-101
 彼は「恒産」を獲得することとなります。「恒産無き者は恒心無し」というでしょう。ヒュームは、権力、財力、教会、世論というものに左右されないベースを自分の細腕で獲得したのです([……])。
 現在、日本の「インディペンデント」というと、残念ながら1996年に死去した、司馬遼太郎である、といっても誰も反対しないでしょう。もちろん「フリーシンカー」です。権力や財力、世論はもとより、どのような党派や個人にも「従属」しない生き方を選びました。それでいて、司馬は、スピノザやヒュームとは違って、聖俗の権力から疎まれてもいなかったのです。これは、すごいことなんですよ。
[……]
 司馬のようにというわけにはいかないでしょうが、自分の収入の過半を自分の仕事のために投資できるライフスタイルを獲得したならば、その人は「インディペンデント」となりうる資格を確保する、といえるでしょう。つまりは、現代の隠者たりうる、というわけです。
 もちろん、収入の過半を仕事のために投資できうるというのは、自立自存する隠者の条件にしかすぎません。

p.103
 いずれにしろ、肯定否定を問わず、とりあえず「現実」を受け入れ、しかし、すぐに、その「現実」に対処できる心の状態を持つことです。臨機応変と平静心とは、対立するように思われるかもしれませんが、深いところでつながっている、というのが私の考えです。

p.112
 福田は、味方の敵は敵、とか、敵の敵は味方、という徒党主義的・機会主義的スタイルを絶対に取らない生き方・考え方を貫きました。私は、このような困難な立場、しかし、思考者として当然の立場を指して、「孤立」といいたいのです。

p.114-115
 今度は違います。誰とやるかは、そのチームを編成する人間の力に委ねられています。チームの一員になろうとする人にとっては、こんな人とならやれる、この人とならぜひやりたい、という選択が可能になります。個人中心の仕事の場合には、はっきりと、この人と自分が組んで仕事ができたら、という希望を持ち、その実現を図ることができます。
 こんな人と仕事をしてみたい、という希望が叶ったら、どんなにすてきでしょう。人間、自分一人の力でできることはしれています。素晴らしい人と仕事をしながら多くのものを学んだり、あるいは、同じ仕事で切磋琢磨できたら、どんなに楽しいでしょう。
 私は、個人主義の時代だといいましたが、個人中心の快楽の最大のものといえども、やはり、分かち合う、ということです。自分の最良のものをあたえながら、相手の最良のものを享受できるということです。

p.139
 自分の仕事場に投資しない人は、話にならない、というのが私のモットーです。自分から研究者と名乗っているのに、理科系ならいざ知らず、自宅に仕事場を持たないで、どうして仕事ができるのかな、というのが私の考えです。

p.150
 過疎地に住む効用の非常に大きな部分は、「都会」との距離です。遊ぶために大きなエネルギーが必要なことです。なにせ、飲んだら帰れないのです。しかし、帰宅(帰還、といった方がいいでしょう)したときには、妙なエネルギーが全部消えて、仕事のためのエネルギーに灯がつき始めるのです。

p.191
 つまり、個人主義的な人生の時代とは、社会共通の尺度、「定年」や「高齢」で自分の人生をくくる、締めくくろうとするのではなく、「仕事」と「意味」のある人生でくくろうとします。

p.194
 一人の人間が、一つの職場との関係で、人生の意味を消費する時代は終わった、と観念してください。

p.195
 大げさにいえば、自分の仕事が最盛期を迎えたと思ったら、すでに、下降期を迎えているのだ、と考えて間違いありません。

p.200
 中期には、一定の土台ができます。その上で、一定の成果ある仕事も可能になります。一定の安定を得ることもできます。でも、この時代、一つの土台作りに人生を特化してしまったら、後期の「成果」を見ることはできないのです。中期に形成した土台は、後期には使いものにならないだけでなく、後期にとっては障害物になる、という場合がしばしば生じます。中期に形成した成果も、また、同じことです。
 しかし、土台にせよ、成果にせよ、使い方によっては、他の分野で活用可能なのです。組み替えることですね。もちろん必要なのは、複数の分野に活用可能な土台形成です。そのための準備活動です。可能ならば、中期で、すでに、複数の分野で仕事をしている、ということです。

p.208
 ただし、気まぐれは原則ですが、気ままな生き方を可能にするためには、自分で確立したスタイルが必要です。そのスタイルの是非は、他の個人との「競争」で優劣が決まります。劣ると、アウトです。

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