『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』
著者:遙洋子
タイトル:『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』
発行所:筑摩書房
発行年:2000年
定価:1400円(税別)
読了:2000年3月22日

p.36-37
 ひとたびゼミが始まると、彼女の仕事は議論の管理のように見えた。やってみせるのではなく、やりかたを指導する。間違った方向へ行けば容赦なく止め、面白い展開になると、そこを膨らませて、感動へと持っていく。

p.45
「やっぱり私はバカだ! 何度読んでもわからない、やっぱ、ついていけないんだ!」
 その時、一人が質問した。
「このレジュメ、いったいなにがいいたいんですか?」
 これが、コンプレックス。この差を生み出すのがコンプレックスというものである。理解できないとき、「自分のせいだ」とうなだれるか、「何言ってんの」と言えるか。この差は大きい。この差がある限り、疑問は相手にではなく常に自分に返ってくる。これでは永遠に議論が成り立たないことがわかった。
 ここに来て驚いたことだが、今まで、学問は教えを乞うことだと思ってた。が、どうやらここでは学問は研究者を批判することだった。先人たちが正しいのではなく、先人たちの犯した過ちを指摘し、先人たちの歩めなかった道を切り開く、という作業がゼミだった。
 まさしく、学問の最先端。
 そこは私の「勉強」の概念では、勉強しにくるところではなく、勉強した者が来るところだ。

p.70
 プロのフェミニズム理論を会得していてもなお、人間扱いされない構図から抜け出せないなら、そこに必要なのは抜け出す技術。もしくは構図をたたきつぶす技術といってもいい。
 [……]
「女が男を買うという逆転現象を、上野教授はどう分析しますか?」
 [……]
「女が男を買う? それ、ギャルが汚い中年のオヤジを買うの? 違うんでしょ? あいかわらず年下の美少年を買ってるわけでしょ? じゃ、なんら目新しい逆転現象でもなんでもない。今の社会がもつ性の価値の副次的なものにすぎない。」
 テーマ提起に意味なし、ということだ。これが、構図をたたきつぶす技術だ。
 議論が始まるまえに一言。
「語る値打ちなし。」

p.76
 パラダイムは当事者の経験を構成する世界観の根底をなしており、「説得」や「論破」によって取り替えることができるようなものではない。(「<わたし>のメタ社会学」)

p.78
 一年を通して見えてきたもの。
 それはどうやら歴史は済んだ過去のことではないらしいということ。戦争が突発的なものではなく日常から誕生すること。あらゆる歴史的悲劇はその芽が日常に潜んでいること。そして慰安婦も日常から誕生したこと。

p.114-115
「なんでちょっと多く生活費を出すの?」
「文句言われたくないからです。」
 ほらみろ。なにが平等主義だ。世の中、家に帰ってぎゃーぎゃー言われたくなくって、だんまり決め込んでるオヤジだらけだ。文句言われたくなきゃ全額払え! 心でつっこみながら、教授の男料理が楽しみだった。
 紳士君は続けて言った。
「やっぱり今の世の中まだまだ男女賃金格差がある以上、そのぶん男性が負担するのは当然だと思う。」
 オレは男女平等だといわんばかりの鼻息の荒さだ。フツーの女なら、なんか気持ち悪さを感じつつも、ここで生活費を差しだしてしまうだろう。
 上野千鶴子は違った。
「じゃ、負担率を7対3にしたとしましょう。ただしそれは労働の市場価格です。不払い労働、つまり家事負担率はどれくらいにする?」
「ぼくの方が負担してるぶん、家事はラクしたい。」
 ほら、出た。これだ。この発想の延長に「誰が食わしてやってると思ってんだ! アン?」が誕生する。時間の問題だ。
「じゃ、労働は価格なの? 労働の強度はかえりみないの?」
 そうだ。労働を何で評価するか。どの労働が家に帰って一番大きな顔して、「疲れた」が言えるのか? 働くことがエライのではなく、働くことの何がエライのか、ここはしっかり押さえておかなきゃならん。
「大学教授は拘束時間に比べ価格はたいへん高い。小学校の先生は時間拘束は圧倒的に長いのに価格は低い。これが夫婦だった場合、どっちの労働が上位なの?」
 さすがに紳士君は返事ができなかった。判断がつきかねたのか、「金稼いでるほうじゃ!」とは好青年の理性が押し殺させたのか。
 労働の強度と労働の価格に相関関係はない。となると、労働を容易に判断することは危険だ。払わなくてもいいお金を払い、礼を言ってもらわなきゃいけない相手に詫びを入れるという、わけのからないことになりかねない。
[……]
「オトーサンは働いているから偉いのよ」と子供に尊敬させる母親のやみくもさもまた、共犯だ。

p.117
 ひとつの出来事は多面体で、にもかかわらずなぜ一面しか見えてこないのか、物事が多面体であることを知るだけでなく、その一面しか見せなくしているトリックそのものを見破らねばわかったことにならないのではないか。
 ヒントは、そのトリックを使うことでいったい誰が得をしているか、である。

p.121
 ダラ・コスタは、「女の場合は、結婚によって彼女の一生涯にわたっての労働力を売ろうと決めるのは女自身である」(『愛の労働』)と言っている。その結婚が不幸なものだった場合、他の誰でもない自分でその生き方を選んでしまった悔恨こそ「人生を棒にふった」という表現へと駆り立てる。
[……]
 結婚生活において提供した労働力の結果、本来、私財のひとつも得て当然なのに、ただ、生きた。人生ひとつぶん働いた結果、自分の手元に残る物は何一つなかった。
 これこそが「棒にふる」という言葉をはかせる理由だと推測する。

p.125-126
 後日、父がテレビに出演する羽目になったとき、それはもっと端的な形で現れた。
 父は大声で言った。
 「チンポ」と。
 晩年、父の介護を体験したとき、父に男性としてささやかながらコンプレックスがあったことを私は知った。他人にはささやかでも、本人がコンプレックスなら、コンプレックスだ。長い人生の苦悩が、数々の浮気や、女自慢を呼んでいた。
 彼は最後まで、コンプレックスから、自由になれなかった。
 人は晩年になればなるほど、その極端な言動にその人の人生を背負う。歳月は人生の苦悩を軟化せず、硬化させて際だたせる。その常軌を逸した言動に、人生の過酷さを集約させる。私たちは、そうならざるを得なかった人生に思いを馳せるしかないのである。

p.154-155
 歴史は語る。目前の「よかれ」には慎重になれと。
[……]
 上野のいう、
  女性=平和主義という本質主義によらないフェミニズムと反戦の思想の構築(同前)
も、「なにが反戦だ。実際に、ここに暴力が存在するじゃないか」という反論に出会う。
 それも上野は、「暴力が存在することと、正当化された国家暴力とは違う」と反論する。それに対し、「なにきれいごと言ってんだ、じゃ、今ここにある婦人自衛官の明白な差別をどうするんだ」という声があがる。手を汚さないで、なにが、反戦だと。
 ここに、目前の「よかれ」の発想がある。
 目前の差別に善処するため、目前にある国家と関係する。市川房枝も戦争大賛成じゃなかったことを忘れてはいけない。彼女はあえて、手を汚したのだ。そうしてまで、目前の差別のために戦った。そしてからめとられていった。

p.157
 「じゃ、フェミニズムに国家理論はあるんですか?」の質問に、上野は間髪入れず答えた。
 「フェミニズムに国家理論は必要でしょうか?」と。
 言い切ったあと、そこにいる全員を見回す。
 「ほっとけ、誰か文句あんのか?」と、私は理解した。
 差し出した手をはねのけられ、「で、どうやって、生きていくんだ?」と優しく脅迫する権力に対し、「ほっとけ」は非常に正しい反応だ。目前の選択をしないことは、現実逃避でも理想主義でもない。「選択をしない」という現実主義なのだ。「理論的困難がともなう」(中山)のではなく、「挑戦」の理論だ。

p.180-181
 人間が生きていく以上、あるていどの類型化はやむをえない。だが、直接にむかいあいながら少しずつ類型をつくる努力を怠り、わずかな接触の衝撃にすら耐えきれずに神話の形成に逃避し、一つの物語で世界を覆いつくそうとすることは、相手を無化しようとする圧力である。この逃避こそ、あらゆる神話の起源にほかならない。(小熊英二『単一民族神話の起源』)
 神話は現代でも数多く生き残る。神話に生きることは怠惰と弱さの証明と、歴史が言う。
[……]
 「経験知」は経験の絶対化を意味しない。この「経験」はなぜこうであり、こうでしかないのか? この経験が「こうでなかったかもしれない可能性」はあるだろうか? この疑いは経験の「実定性」を疑うことはしないが、経験がとりえた他の可能性を疑ってみることはできる。そしてその構想力をわたしたちは「自由」と呼ぶ。(上野千鶴子「<わたし>のメタ社会学」)
 構想力のない経験は「知」にならない。「自由な構想力」。これが、失敗を繰り返さない鍵だ。
[……]
 個人は社会が要求する同調や参加から一歩距離をおいて、自己の責任において判断する秘密の時間、あるいは自由な空間を保持していなければならない。この秘密な時間、自由な空間は(中略)自己自身による判断を生み出す拠点となるという点で、能動的な態度設定をもちうるための不可欠の条件なのである。(山之内靖「方法的序論―総力戦とシステム統合」)
 ひとりの時間を持ちなさい。自由にものを考えなさい。決めつけず、逃げず、面倒くさがらず、人と相対しなさい。

p.207
 「知」の供給なしに「知」の需要もない。
 どちらが先かはわからないが、「知」がある特権的エリアに集結していることは確かなようだ。
 なぜ、こうなったのだろう? 誰が何のためにこうしたのだろう? それで利益を得ているのは誰だろう? 使用価値のある「知」の分配。その必要と責任をいったいどれほどの人がこの大学でわかっているのだろう。だいたい、学問を使える学生が何人いるのか? 使い方がわかっているのか? 教え方もわかっているのか?

p.211
 ゼミでは議論がある。実社会でも議論がある。決定的に違うのは、ゼミの議論は、反論を待ってくれる。論者がしゃべりだすまで、全員がじっと待ってくれる。
 そこでは意見はキャッチボールであるという常識がまかりとおる。論者はその常識に身をゆだね、言葉を「選ぶ」という贅沢な時間を過ごす。
 実社会では誰も待ってはくれない。

p.235-236
 たしかに、上野千鶴子の本は専門的だ、と私は感じる。それは私だけではないだろうとも思う。「専門」と「日常」には乖離があるように見える。そのことで疎外感を拭えない人もいるかもしれない。
 しかし、上野はフェミニズムの先頭を風を切って走った。
 それ以上なにを望むのか?
 走るのをやめて、振り返って手を引いてくれとでもいうのか?
 私は言葉がわからないから一人一人に教えてくれとでもいうのか?
 上野は上野の意志で走りつづける。あとは私たちの問題だ。上野に距離を感じるのなら、走って追いつくのは私の仕事だ。上野は違うと思うなら、正しいと思うところに自分で走ってみるしかない。
[……]
 人は謙虚さからしか努力を呼べない。前を走ってくれた感謝と残る無念が、私の憤りを覚醒させ、共振させ、勉強へと駆り立てる。

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