『にせもの美術史』
著者:トマス・ホーヴィング
訳者:雨沢泰
タイトル:『にせもの美術史 鑑定家はいかにして贋作を見破ったか』
発行所:朝日出版社
発行年:1999年
定価:2500円(税別)
読了:2000年2-3月頃
p.67-68
アルブレヒト・デューラー(一四七一〜一五二八)の作品、とくにその銅版画は生涯にわたって多数贋作された。神聖ローマ帝国はユニークな試みとして、デューラーの死後十年間、あらゆる木版画と銅版画の贋作を禁止する著作権法を制定した。この特別期間が終わると、いっせいに贋作が出まわり、一説には五千にのぼる数がつくられたといわれる。
p.107
J・P・モーガン(ジョン・ピエポント。一九一三年没。金融資本家。モーガン財団の始祖)はとりわけ欲張りな収集家だった。彼は偽物をつかまされるより、むしろ自分で生むほうだった――正確にいえば、彼の雇った代理人たちが偽物を持ちこんだということである。
p.108
美術史はマイペースで進んでいく。通常はカタツムリの這うようなのろさである。
p.120
代理人自身が悪事に関わり、巧みに隠している例もあった。おそらく、犯罪的な代理人は以前思われていたおりずっと多かったという見方が現在では有力である。
アマチュア愛好家では、ボストン美術館の代理人、エドワード・ペリー・ウォレンとその僚友のジョン・マーシャルが知られている。また、カンザス・シティのネルソン・アトキンズ美術館とクリーヴランド美術館の代理人だったハロルド・ウッドバリー・パーソンズは、二つの美術館の利害の対立をうまく避けるように仕事をすすめていた。一時、ローマの名声あるドイツ考古学協会員だったヴォルフガング・ヘルビッヒはボストン美術館のために助言したり買い付けをしたりしていたが、基本的にはカールスベアー(カールスバーグ)・ビール会社の創業者、カール・ヤコブセンにおって設立されたコペンハーゲンのニュー・カールスベアー彫刻館のすばらしい古典彫刻部門の代理人だった。
じつはヘルビッヒは驚くほど賢い贋作者であり、性根の曲がった考古学者であり、優秀なペテン師だった。マーシャルも、立証こそされなかったが、一見して贋作をわかる美術品にかかわることの多いあやしい人物だった。このなかで潔白だと思えるのはハロルド・パーソンズだけである。彼は贋作者を見破り、贋作を買った美術館にそのことを知らせようとした。告発者の典型にもれず、パーソンズはたびたび相手にされず、非難もされた。
p.144-145
印象派の絵を描くにあたってケリーがモデルにしたのは、スキラ社の美術書であった。スキラ社が印象派や後期印象派の画集を刊行すると、かならずそれを買っていた。だから、色調もスキラ風になった。印象派絵画の実物よりも色合いが強く、派手ではっきりとしていた。ケリーはスキラ社の色を正確につかんでいることを自慢していた。スキラ社の色にしておけば、時がたって褪せたときにちょうどよくなると言っていた。そのとおりだった。
贋作といっても、ケリーがしたのは純然たる模写ではない。スキラ社の本の図版をじっくり観察し、五種類以上の絵から部分的にトレースして、たとえばそれがルノワールなら、そのスケッチを組み合わせて新しい「花」の習作をつくるのである。彼はさまざまなサイズや形の要素をとりだし、「残り物を全部まぜた」濃厚なスープの味をまとめる調味料のように合わせ、美しい要素を強調しながらすぐれた味の料理に仕上げた。
こう書くととても簡単なことのようだし、簡単に描いてあるように見えたが、じつはなまやさしい技ではなかった。ケリーはよく、むずかしいのは「正しいテンポ」だと言っていた。本物の画家が無意識に絵筆を動かすときの自由奔放で繊細なリズムのことである。ケリーはそのテンポや速さを練習しなければならなかった。贋作者はつねにオリジナルの画家よりもゆっくり描いているが、速く手を動かせば動かすほど上手にまねられると感じている。もちろんたいていの場合は、出来が悪くなるものだ。しかし、ルノワールであれマネであれ、タッチがすばやいのは非難されない。どんな巨匠にも駄作はあるし、下手な絵がある。逆にぎこちなく、遠慮していると思われたら贋作者失格である。
p.154
学内では有名な逸話だが、大学付属高等研究所の美術史教授エルヴィン・パノフスキーは博学で鳴らした骨の髄まで理論派の学者だが、そのむかしこんなことを放言したそうだ。「本物などクソくらえ! あんなものがあるから、わが理論が停滞するのだ」。冗談好きな教授だから、誰もがこんな戯れ言は本気にしていないが、彼が複雑な図像学と図像解釈学の理論を組み立てるに際して、本物の芸術作品よりモノクロ写真を好んでいるのもまた確かなことだった。この神秘的な学問においては、物体のシルエットこそ錬金術師の規準なのである。
わたしの博士論文を指導してくれた教授は、公式教育のなかで唯一贋作を論じた異例の人物だった。名前をクルト・ヴァイツマンといい、専門は中世美術全般とビザンティン美術、とくに初期のイコンと、初期の彩色写本や校訂本などである。すでに十年以上アメリカで暮らしているにもかかわらず、チュートン訛り(チュートン語は中世に栄えた北欧語とドイツ語の中間にあたる言語だが、ここではドイツ語を指す)の抜けないもじゃもじゃ眉毛のクルトは、現代絵画も熱烈に愛しており、ドイツ表現主義についてはなまじな専門家よりも詳しいぐらいだった。
p.220
一流の鑑定家の眼さえごまかし、あらゆる人をだました贋作者が過去にいただろうか。わたしが思うには、二人しかいない。十九世紀と現代にそれぞれ一人ずつである。
一人目は、フィレンツェのジョヴァンニ・バスティアーニ。この比類なき贋作者は、微々たる報酬に怒って名乗り出たと言われている。二人目は、存在さえしなかった文明の遺物を二十年以上にわたってつくりつづけたメキシコ人であり、この本の最終章でトリをつとめてもらうブリジッド・ララである。
[……]
ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館には、バスティアーニによるすばらしい浮き彫りの「聖母子像」がある。このマリアは、アントニオ・ロッセリーノ(一四二七〜七九)作の壊されて現存しない彫刻の石膏モデルをもとにつくられた。
p.236-237
ところで、一九七八年までに、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の若い陶器部門のキュレーター、チャールズ・トルーマンがラインホルト・ファステルズという十九世紀ドイツの金細工師による大量の彩色デッサンとメモを発見していた。積極的な鑑定家のトルーマンはすぐに、その多くが十九世紀の宝飾品のためのデザインではないことに気づいた。ルネサンスとバロックの美術工芸品を贋作するために描かれた一連の下絵だったのだ。
p.271-272
そのため、ソンネンバーグはミュンヘン大学の美術史学科に入学し、わずか四年で博士号を取得した。伝統主義の色濃いドイツの大学では、ロケットのようなスピードだった。ここで選べた進路は、ハンブルク大学で教鞭をとるというものだった。しかし、家族の落胆をよそに、彼は絵画修復家になる道を選んだ。大学の美術史の世界にいても、彼が望むほどには実物の美術品に近づけなかったからである。「わたしはオリジナルのそばにいるという考えを愛した。ある大学のアカデミックな象牙の塔に閉じこもり、芸術論だけを扱うようなことはしたくなかった。芸術と密接にかかわり、つねにこの手でさわっていたかったのだ」と彼は回想している。
p.291-292
ゴッホに関する調査でとくに貢献度が高かったのは、フランスの数学者で、元画商、鑑定家でもあるアラン・タリカがおこなったものである。彼はそれまでの神話的イメージとは逆に、ファン・ゴッホには弟子がおり、生前からかなりの数の絵を売っていたことを明らかにした。弟子としては、たとえばオランダ人のフランク・スホウフェネッカーや、アルルでの主治医であるポール=フェルディナンド・ガシェなどがいる。タリカはオルセー美術館にある一八八七年の憂鬱そうな「自画像」――片手で首おささえて、むっつりとこちらを見ている――は、ガシェの作品だとしている。この絵の筆さばきと色彩は、あきらかにほかの作品とは違って、薄く弱々しい。同美術館に並べて展示されているゴッホ自身のものとくらべると、その違いは歴然としている。タリカはまた、一九八七年の競売で、日本の保険会社である安田火災海上が三千九百九十万ドルで落札した「ひまわり」も、ファン・ゴッホ自身の手ではなく、よくできたシューフェネッカーの作品ではないかと疑問を呈している。シューフェネッカーがゴッホの弟子をしていた時代のものだというタリカの説は、かなり説得力がある。
「辛抱強いエスカリエ」と出会ってから、ソンネンバーグはドエルネル研究所で人間の能力を重視したセクションをつくることにした。コンピューター、X線写真、光学放射分光式分析器、色彩測定器、レーザー・マイクロ分析器、紫外線分光光度計――といった高度な科学検査機器から得られたデータに、彼独自の非科学的な観察を加えるようにしたのである。新しいセクションでおこなわれるのは、あらゆるスタイルの観察と、贋作者が手を下したという疑いにつながるさまざまな問題点の掘り起こしだった。何十年も絵を観察してきた人間の眼、直観による反応、感性といったものは、どんな機器よりも正確な判定をする場合があるからである。
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