『<対話>のない社会』
著者:中島義道
タイトル:『<対話>のない社会 思いやりとやさしさが圧殺するもの』
発行所:PHP研究所
発行年:1997年
定価:657円(税別)
読了:1999年11月頃?

p.19
 みんなに呼びかけられた言葉は、ほとんどの場合個人の心には届かない。何を注意されても聞き流す、いや聞かない態度を養う。[……]
 この国では、公共の場で個人を特定して評価すること、ことに非難することをきわめて嫌う。これは「特殊日本的基本的人権」の核心部分をかたちづくっている。人々はルール違反をする個人に対してとても寛大なのであり、とても「優しい」のである。その人を傷つけないように細心の注意を払い、その人を公衆の面前であからさまに責めたてるのは「かわいそう」なのだ。

p.33
 教師に向かって「ぜんぜん聞いていませんでした」とか「眠っていました」と真顔で語ることは、これまでただの一度も教育されてこなかった。「先生のバカ話がアホラシクテ」と――ふてくされてではなく――真顔で語ることは想像だにできないのである。
 そう語ったら最後、教師がどんなに自分を虐待するかを知っているからである。ゲシュタポや特高警察が眼を光らせる国で「真実を語りましょう」と叫んでも、だれも恐ろしくてその手には乗らないことと似ている。
 [……]
 したがって、――容易に想像できるように――おおざっぱに言って、学生たちは学力(偏差値?)が低くなるほど言葉への信頼を失っている。総じて学力の高い学生は、言葉を比較的自然に語りだすが、学力の低い学生は口をつぐむ。

p.35
 「私は割り算もできなかったの」とささやく女優、「小説ばかり読んで、いつも成績はビリだったよ」と快活に語る有名作家、「大学時代はボート部の主将でね。裏表八年やったよ、ハッハッ」と言う社長など、成功者は競って劣等生ぶりを披露するが、こうしたお話は「現役劣等生」の心を曇らせるだけである。

p.45
 彼らは「わからない、わからない」と思いながら、小学校から大学までたどりついてしまったのだ。あるとき「何がわからないのだ?」と聞かれても「何もかもわからない」と答えるほかない。そして、さらに「そんなのことがわからないのか」と怒鳴られるよりほかない。もう行き着く先はわかっている。だから、黙っているのである。
 彼らは言葉を信じていない。あたりまえである。彼らは小学校以来、自分の語ることが(とくに授業中)周りの者に尊重されてこなかった。自分の言葉によって全体の状況を変えることができるなどと想像もつかない。自分の言葉には威力がなく、優等生の言葉には威力がある。この差別をずっと見つめてきたのである。
 しかも、この国で彼らに要求されるのは「和の精神」である。[……]「和」とは、現状に不満を持つ者、現状に疑問を投げかける者、現状を変えてゆこうとする者にとっては最も重い足かせである。
 容易に見通せるように、「和の精神」はつねに社会的勝利者(例えば学力の高い学生)を擁護し社会的敗者(例えば学力の低い学生)を排除する機能をもつ。そして、新しい視点や革命的な見解をつぶしてゆく。かくして、「和の精神」がゆきわたっているところでは、いつまでも保守的かつ定型的かつ無難な見解が支配することになる。

p.59
 駅前ロータリー、公民館、路上、公園、事務室、社長室、校長室などに夥しく立てられ貼られているこうした「標語」は景観を破壊し、醜いばかりではない。それは、公共空間において(警察、消防署のみならず、町内会、商店会、社長、校長などを含む広い意味の)「お上」が一方的に不特定多数の者に対してメッセージを送る暴力なのだ。
 なぜなら、こうした「標語」は私人が立ててはならないからであり、しかもそれを設置するさいに公開討論の場があるわけではないからである。[……]
 そして、そこを通る人々はこうした管理語になんの違和感も反発も感じない。黙々とその前を通過する。チラッと見上げても、ああそういうことかという程度の反応である。だから、「お上」もこの無反応をもって承認されたものと見なしてしまう。

p.67
・講師が求めていることに、何一つ答えていません。建設的な批判はどこにも見あたりません。仕事の質は全然問題にしないで、労働だけに感謝しています。
・このスピーチには、話し手の個性が全然反映されていません。まるでロボットがしゃべっているみたいですね。外国人教師が主催する他のどんなセミナーでも、一行も変更しないで、そっくりそのまま使えます。どこででも通用するスピーチは、礼儀にかなったスピーチとは、言えません。
 [……]
・この人のために、ほかの参加者は自由に批判ができなくなっています。

p.70-71
 われわれ日本人は理念的には欧米言語観をよしとしている。「自分固有の生きた言葉」で語ることを「紋切型の慣用句の羅列」よりよしとしているのだ。しかし、生活の現場では、公式的な場になればなるほど、こうした個人的匂いのする言語は、いわば脱色され脱臭される。無色透明・無臭の言語が歓迎されるのである。この国で排除されずに生き抜くためには、このダブル・スタンダードを手際よく操ることが求められる。

p.101
 現代日本人は――身の安全が保障される限り――目標のはっきり定まった事柄について、私情を交えずなるべく客観的に語ることはそれほど不得手ではないのだ。「いじめをなくすには」とか「カンニングを防ぐには」といったように、討論の枠が限定されればされるほど、われわれは気安くそれに参加できる。だが、枠が拡大するほど、それは小手先のあるいは断片的な知識による対応ではウマクゆかなくなる。
 そして、そのときおおかたの日本人は沈黙するのである。[……]なんら確定的な答えもなく、その「人」の全人生をかけた言葉でなければならなくなるので、黙るほかない。一度も真剣に考えたことがないことについては、討論に参加できないからだ。

p.105-106
 『雪国』の会話
 [……]
 「あんた私の気持ち分る?」
 「分るよ。」
 「分るなら言つてごらんなさい。さあ、言つてごらんなさい。」と、駒子は突然思ひ迫つた声で突つかかつてきた。
 「それごらんなさい。言へやしないぢやないの。嘘ばつかり。[……]」

p.123-124
 『ゴルギアス』(岩波文庫)から。
 [……]すなわち、話し合いをする人たちは、どんなことについて話し合おうとしているのであれ、そのことについて、互いに教えたり教えられたりしながら、双方の納得のゆくまでその事柄をはっきりさせて、そうしてから、その対談を終わりにするということは、なかなか容易にはできないことなのです。いな、もし両者が何らかの点で意見を異にし、その一方が、他方の言うことの正当さを認めなかったり、あるいは、その言い方は明瞭でないと言ったりすれば、そう言われたほうは、腹を立ててしまい、それは自分と張り合うために言われたことであって、その議論で問題になっている事柄は少しも探求しようとはせずに、ただ議論に勝ちたいばかりにそう言っているのだと、こう考えるものなのです。

p.128
 先生から「無心」と言われて「わかったような気」になりやすいのが日本人なのだ。「無になってしまわなければならないと言われるが、それでは誰が射るのですか?」とか「少なくとも無心になるつもりにならなければならないでしょう」と――たとえポッと頭に浮かんだとしても――ヘリゲルのように尋ねないのだ。弓道ならそれもよかろう。しかし、じつはこうした態度はわれわれがものを学ぶときに一般的に要求される態度でもある。としたら、この態度は有害である。

p.135-136
 もしAが<対話>を遂行しようとするのなら、彼(彼女)はBやCの立場を安易に「わかる」と決めつけるのでもなく、「わからない」とつっぱねるのでもなく、「わかろう」と努力する。その場合、自分の状況と相手の状況とを見渡す公平な(第三の)視点を得るのではなく(それは得られない!)、あくまでも自分の状況にとどまったまま、相手の状況を理解する二重の視点を獲得するのである。

p.143-144
 四竈は元東京女学館の校長であるが、校長として――この軍曹のように――生徒たちに「弁解する」ことを許さず、「たとえ自分がやらなかったとしても、『私がやりました』と言って出るくらいの気持ち」を期待していたのだろうか。とすれば、教育者として恐ろしいことである。彼は、生徒たちが言葉を駆使して自分の生命・身体・名誉等々を守ることよりも、身に覚えのないのに罪を被ることを「人間のあり方の大切な基本的なこと」と見なしている。
 その背後には、たぶん「私は!」「ぼくは!」「おれは!」とだけ主張して自分だけ助かろうとするエゴイズムへの嫌悪があろう。自分が罪を逃れれば、同僚が罪を着ること、この他人に対する思いやりのかけらもない人間としての小ささ、貧しさがあろう。
 [……]こういう人間教育のもとでは、若者たちは「思いやり」を尊重するゆえに真実を語らなくなる。いや、語れなくなる。[……]真相はいつも他人への配慮の背後に隠れ、追求されなくなるのである。なんと風通しの悪い社会であろうか! そこでは、とりわけ弱者の叫び声は「思いやり」や「優しさ」という名のもとに完全につぶされ続ける。そして――四竈は特別ではなく――これこそ現代日本人がこぞって追求している価値なのだ。みな、真実を語らない社会、言葉を信じない社会、<対話>を拒否する社会をつくりたいのである。それも「思いやり」や「優しさ」という美名のもとに。

p.148
 この国では、「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」である。したがって、われわれ日本人は他人から注意されると、その注意の内容がたとえ正しいとしても、注意されたことそのことをはげしく嫌う。その他人は私を傷つけたからであり、「思いやり」を欠いたからであり、日本的行為論の「公理」に反する暴挙に出たからである。

p.150
 肉体的に死なせないことだけではない。精神的に死なせないこと。肉体的に自殺させないことだけではない。精神的に自殺させないこと。
 それには、被害者の発するサインを、目撃者の証言をまず信じることである。たしかに慎重にしばらく様子を見るほうがよい場合もあろう。しかし、そうしているうちに被害者は「(肉体的あるいは精神的に)死んでしまう」のだ。「慎重に様子を見ること」ばかり考える先生は、じつはわが身を守っているだけなのである。早まった手を下して非難されたくないだけ、責任をとりたくないだけなのである。すべてを「なりゆき」にまかせておれば、ほぼわが身は安全であることを知っているだけなのである。

p.151
 自分の直観と経験をたよりに断固とした行動をとり、最終的には自分が責任を引き受けるべきである。学校を追われることもあろう。家族が路頭に迷うこともあろう。しかし、それでもしかたないことである。「自己責任」とはこういうことなのだから。それが、現代日本でいちばん教えられていないことなのだから。

p.159
 事務員は、半分は私にヤンワリと注意し半分は困った親だという喧嘩両成敗の対応であった。彼にとってはすべてが経営の問題である。正義の問題でないことはよくわかった。

p.170-171
 引用文中に「まるで連歌会のように」という一節があるが、連歌こそ、われわれ日本人の会合の席での言葉づかいの典型であるように思われる。
 Aの句をBは引き継ぎつつ、新たなる世界を開いてCへと受け渡すことが要求される。とっさに与えられた状況に正面から抵抗せずに、それを一旦そのまま受容し、自分の住みやすい色合いへとわずかに変えてゆく。その絶妙な移行におもしろさが潜み、その移行の技を競うのである。

p.173
・自分からは動かないで、まず相手の出方をうかがい、「様子を見る」ことを基本とする。
・状況に最も適合した「正解」は一つであり、それは状況の推移を見守るうちにおのずから明らかになる。……したがって、状況が変化しつつある間は容易に決断できないことになる。
・いずれにしても、こうして選択の余地がなくなり「こうするよりほかに仕方がない」状況になってようやく行動に移る。こうすれば責任の追求を免れることができる。

p.196-197
 こういうことである。政治家も評論家も先生も親も学生も生徒も社長も社員も<対話>の重要さを認めている。自己決定・自己責任の重要さを認めている。みんな、日本人の幼児性や非個性的なこと、「自分がないこと」を嘆いている。しかし、本当のところ嘆いてはいないのだ。「自分がないこと」こそ、じつは自分が望んでいることなのである。言いかえれば、だれも彼が自分は実は「和風個人主義」を望んでいるのに、「洋風個人主義」を望んでいる振りをする。自分はじつは日本的風土に合った「会話」を望んでいるのに、<対話>を望んでいる振りをするのだ。
 私は、これこそいちばんの罪であると考えている。校長先生が朝会で「みなさん、前後左右の他人のすることをよく見て、あまりそれに反することはしないようにしましょう」とか「自分だけで決めることはあとで責任をとらなければならず、損だからやめましょう」と語りかけるのなら、彼(彼女)は自分の言葉や行為に誠実だと思う。社長が入社式で「優等生ではなく型破りな者や野人を求む」と言うのではなく「日本的風土に合った型破りな者やみんなに迷惑をかけない野人を求む」と言えば、やはり納得がゆく。しかしだれもこうは言ってくれない。
 こうして、西洋起源の言葉はことごとくこの国では二重の意味を担いながら、「本来は……、しかしじつは……」という精緻なダブルスタンダードを築いてゆく。しかも、ほとんどの者は自分が巧妙なトリックをしかけていることに気づいていない。自分はまったく一元的な真理を語っているつもりなのである。

bookspreviousnext

本の紹介リストへ|戻る|次へ

 banner
このページに関するご意見・ご感想は KFC04615@nifty.ne.jpまで