『日本・現代・美術』
著者:椹木野衣
タイトル:『日本・現代・美術』
発行所:新潮社
発行年:1998年
定価:3200円(税別)
読了:1999年6月頃?

p.16-17
 本論の以後の展開において、怪獣映画、漫画、ロック音楽、新興宗教といったある種風俗的な文化現象が、垣根を越えるようにして絵画や彫刻、反芸術等といった大文字の「芸術」と接続されるときに起こっていることは、そのような事態から導かれているのであって、けっして、ときに口当たりのよい美辞麗句として語られる「ジャンルの横断」などでは断じてありえない。まったく反対に、われわれの不幸は、いまだにジャンルがジャンルとして機能しておらず、それゆえに最初からそれらが渾然一体となって現れざるをえないような「悪い場所」に生きることを余儀なくされていることにある。そのことを考慮に入れずに、欧米並にジャンルを横断することがなにか特別な冒険であるかのように誤認してしまうことは、どうにも滑稽にすぎる。

p.38-39
 これにならっていえば、芸術の価値を決定する体系もまた、任意の数だけ存在することになり、数学の体系がそうであったように、もしそのなかでひとつの体系を「選択」する「理由」があるとしたら、それは当の体系が他の体系よりもいっそう多くの範囲を数学的に解決できるからにすぎないのであって、これにならっていえば、無数に存在する芸術の体系のうちで唯一の体系が「選択」される「理由」があるのであれば、この体系もまた、より多くの範囲を「芸術」として解決できるのでなければならないことになる。つまり、ほかの体系からすれば非・芸術的にしか見えないより多くのものを芸術として解決できる体系が、暫定的にではあれ、すぐれた芸術の価値決定機構となったのである。

p.51-52
 反対に、バブル崩壊以後に現れた「還元」のポップは、そうした「暗い動機」にもとづくものである。そのことは、彼らのとりあえずの出発点となるのが、漫画やアニメ、怪獣やテレビゲームといった、「オタク」文化であることにも看て取れる。それらがいずれもアメリカ起源のサブカルチュアであることに注意しよう。いうまでもなくここで「暗い動機」というのは、彼らが「オタク」的な動機をもつからというのではない。そうではなく、アメリカ的なるものにいったん思考を拘束されることなくしては「オタク」すら成立しなかったように、思考をアメリカ的なるものに占領され、しかしその「占領地」の只中にみずからが立っていることを「認識」することによってはじめて、彼らの制作もまた始まったという点において「暗い」のである。彼らがときに反動的に思えるほどに日本的なるものを表象することをためらわないのは、この「暗さ」ゆえのことだろう。したがって彼らの「日本」は、経済力を得て世界に向けて発言することの権利を声高に主張するたぐいの「日本」ではない。好き好んで選択したのでないにもかかわらず、気がついたときにはそこに立たされていた「いまここ」がどんな場所なのかを知ることを制作の前提に据えたときに浮かび上がって来ざるをえない、その意味での「日本」なのである。

p.60
 ともあれ、とかく「あいまい」な日本の優柔不断が国際的に批判されるなかで、この言葉をノーベル賞受賞講演の演題に据えた大江の大胆な態度に学ぶ必要はあるだろう。わたしたちの「いまここ」が明治以降の未完の近代化政策によって根源的に分裂的に規定されており、それゆえに「あいまい」であるのならば、「西洋」か「日本」か、「理性」か「感性」か、「理論」か「実践」か、「左翼」か「右翼」かといった二者択一的な問いは、わたしたちの「あいまい(アムビヴァレント)」な本性に由来する偽の問いであり、むしろこれら二者択一を迫る問いを確率論的な意味で「あいまい(アムビギュアス)」な問いへとつくり変えていくことができなければならない。わたしたちにとっての二元論とは、なによりもまず、明治以降のこの思考の分裂に由来するものであり、そうなのであれば、西欧並みに二元論の解体を唱えるばかりではなく、それら二元論の両極を「あいまい(アムビギュアス)」に両立させることにあるときは成功し、あるときは許しがたく失敗してきたわたしたちの姿を直視し、そこから出発することしか、道は残されていないのではないだろうか。

p.72
 日本が近代化されるためになんとしても必要とされざるをえない、国民の国民による国民のための文学の言葉は、批評においてすら、このようにして、「まず何かを想定しなければならない。それが日本の近代批評の始発点であった」という、底無しの無謀さからその一歩を歩みだしたのである。言い換えれば、この無根拠をいかにして忘却し、いかにして制度的に透明化し、そのことによって国民全体に共有される内面として「整地」していくかというプロセスそれ自体が、日本という国民国家を、だれも疑いようのない自明のものとするために必要不可欠の課題であった。この課題がいつ頃までに克服されたかはここでは議論の対象ではない。しかし、少なくともはっきりしているのは、この課題はおおむね成功を収めたということであり、そのことは現代を生きるだれもが、「自然」であるとか「世界」であるとかいった概念が、不自然で支離滅裂な使われ方をしているとは思わないことひとつ取ってみてもあきらかだろう。
 第三章で指摘したとおり、こうした自明化、内面化のプロセスはきわめて政治的なものである。たとえば、アジア極東に位置する大小さまざまな島の集まりは、それ自体としてみればなんの統一性もない、雑多な諸群島にすぎない。ならば、地域によって異なる民族、文化、言葉、風俗や趣味によって棲み分けられていると考えたほうが自然であろう。具体的にはこの群島の北方にアイヌ民族、南方には琉球民族が定住し、大和民族をマジョリティとしつつも、ときに朝鮮半島や大陸からの移住者をさまざまなかたちで迎え入れた、その意味ではすぐれて「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」な一帯にすぎない。しかし、ほかでもない北村透谷の批評言語それ自体が群島的であったように、これらの支離滅裂な雑居状態が「国民国家」という「近代的自我」にまで高められ、その内面を形成されるためには、まず第一に、それが「群島」であるということが忘れられる必要があった。

p.76-77
 まがりなりにも美術を本業とするものにとって、「美術」ほど自明のものはない。美術作家であるか、美術評論家であるか、美術大学の教師であるか、美術ジャーナリストであるか、美術作品のコレクターであるか、美術館の学芸員であるか、美術画商であるかにかかわらず、わたしたちとって美術が自明のものでなかったら、たちどころに生活に破綻をきたすであろう。それくらい、いまを生きるわたしたちにとって、「美術」はあるべき自明のものであり、その存在をことさらに疑うべきものではない。しかし、もし「美術」が底無しの無根拠そのものであったとしたらどうだろう。いや、正確には、おのれの無根拠さを忘却することによって怪物の生を捏造された仮想現実の一種であったとしたらどうだろう。もしそうだとしたら「美術」はいまだに、その内には、支離滅裂な素顔を隠しもっていることになりはしないか。わたしたちは、その素顔を無視してしまってよいのか。いやむしろ、現代における日本の美術に一抹の可能性があるのだとしたら、それは、日本現代美術固有のあり方などと、ありもしない根拠に胸を張るのでははく、「現代美術」という内面化を解くことによって見出される根拠ならぬ無根拠を、その素顔ならぬ素顔をあらたな生の条件に据えることではないだろうか。

p.80
 もちろんここで花田の語っているのは、たんなる歴史的な考察ではない。彼は、天文学の歴史に言葉を借りることによって、心のなかでふたつの焦点がたがいに譲り合わず、結果として描かれた精神の軌跡が「楕円」とならざるをえないような時代のことを普遍的に「転形期」と呼び、彼が生きたそのときが、まさにその渦中であったことを伝えようとしているのだ。

p.95-96
 この劣性の遺伝子の影響はいたるところに見られるわけだが、その発現をないものとして、美術なりアートなりの偽の世界同時性のうえに立ち、たとば極東において抽象表現主義を乗り超えんと真摯に苦悶したり、見えるものと見えないものとのはざまをメルロ・ポンティを援用して作品化しようとしたところで、はじめから舞台がズレているばかりか、だれひとりそのような問いが発せられていることすら気づくことがないという滑稽を――そしてこの滑稽こそが近代日本の代名詞ですらあるのだが――作品それ自体がどこかで対象化していなければ、滑稽は永遠に滑稽でしかありえないだろうし、その創作もまた、永遠に欧米から数歩遅れた「発展途上」のものでしかありえない。

p.110
 そのなかでもとりわけ「木」は、ほかでもない「美共闘」の中心人物であった彦坂尚嘉の参加が注目された「木との対話」展(一九七九年、西武美術館、企画=中原佑介)を端緒に、以後、一種の流行ともいえる現象を招いていく。そして、もし「絵画・彫刻への回帰」が近代と日本という難問を悪魔払いすることによって自閉的に安定し、ついには八〇年代における「描くことの謳歌」にまで繋がったのだとしたら、やはり七〇年代後半における自然の素材の強調もまた、八〇年代に入って対外的に日本をアイディンティファイする本質としてプレゼンテーションされた、一九八八年における日本館での展示(戸谷成雄、植松圭二、舟越桂参加、コミッショナー=酒井忠康)、さらにやはり海外における日本の「現代美術」の紹介として企画された一九八九年の「プライマル・スピリット」展といった、非歴史的なポストモダニズムを潜在的に準備するものであったといえるだろう。とりわけ「プライマル・スピリット」展には、「現代美術が、具現化している日本文化の深い精神性を集約し、明確に力強く表わす展覧会」との言葉がみえるが、これは、「現代美術を日本・現代・美術に分解して再構成し、そこで具現化されていると思われる日本文化の深い精神性が日本における未完の近代に由来するスキゾフレニーを覆い隠すイデオロギーであることをあいまいに記述する評論」という本書のモティーフに、真っ向から対立している。そもそも、木に代表される日本列島の「自然」が、明治における近代化と、敗戦後の高度経済成長至上主義によっていかに醜く破壊されたかを対象化すべきところに、自然と共生する東洋の深い精神性を見てしまうのは、歪んだ本質主義以外のなにものでもない。ここでは、「美共闘」以後の問題設定は再検討されるどころか、無残に粉砕されている。

p.131
 いやむしろ、そのような視点から見るときはじめて、小沢剛の芸術に込められた近代の近代性という問いも、逆立ちしたかたちで見えてくるはずなのである。なぜなら、近代日本におけるすべての「正統」は、さまよい、悩み、あてどなく日々を暮らしてきた、逆立ちした正統であったはずだから。そしてまた、小沢の芸術もまた、そのような逆立ちした正統の文脈に遠く連なるものではないだろうか。

p.150
 このように考えれば、李が当時提示した「もの派」の可能性の中心は、彦坂をはじめとする「美共闘REVOLUTION委員会」の活動により、創造的かつ批判的に継承(差異をもって反復)されこそすれ、けっして「超克」されたわけでも「否定」されたわけでもなかった。

p.170
 この意味では、「シビれる」「ドキッとする」「ゾクッとする」といった「つくらない」作家たちの言葉にならない嘆息は、「つくること」の呪縛からの「解放」に対して発せられたのではない。おそらく、「つくらないこと」の対語は、近代の日本においては「つくること」ではなく「つくらなければならないこと」であろう。あの嘆息の数々はもしかすると、近代において「つくらなければならな」かった生の呪縛から、たった一瞬でも「解放」されることに由来したのかもしれない。しかし、この「解放」が「つくらなければならないこと」の否定という受動的なかたちをとらねばならないかぎり、「つくらなければならない」ことに支えられることなくしては、「つくらないこと」すら可能にはならない。したがって作家たちが「つくらなければならないこと」に戻っていったのは、ある意味で当然だった。「つくること」ではなく「つくらなければならないこと」、さらには「つくらされること」――それが、日本における近代の美術の現代性という砂漠の別の名にほかならないのだから。

p.186-187
 鶴見俊輔によれば、日本人の多くは、一九二〇年までは明治以前からの服装(すなわち「下着」が普及する以前の和装)を続けており、ようやくそれなりに洋装が普及したのは、戦争準備のための教育に支障を来たすため、学校や工場において推し進められた服装の西洋化指導の結果であり、それを経てもなお、ひとたび家に帰れば、人びとは昔風の日本の着物を愛用していたということである。これは、日常生活において、わたしたちが欧米並みの常識からすれば下着もろくにままならない半裸の伝統を長く遵守していたことを意味する。
 [……]
 肝心なのは、そうした管理体制にもかかわらず、半裸の前近代的「伝統」は、火事で焼け死ぬことを回避するための代償として下着を着用するような転機が訪れない限り、昭和に至るまで継続的に生き残っていたという事実である。そしてここから、消え行く「半裸の日常」に、それを管理しようとする近代の抑圧を敏感に感じ取り、そこからの解放と超克を、原理としての「全裸」にまで高めていく一団の集団が現れたとしても、なんの不思議もない。ゼロ次元の加藤好弘の文章には、たんなる日常的習慣から解放の原理にまで高められた「裸」をめぐる理念が、自信に満ちて謳われている。

p.207-208
 期せずもここで、「犯罪」という言葉が出てきたのも、けっして偶然ではありません。というのも、芸術といい犯罪といい、それらの領域を画定するのは一種の権力行使によってのことであって、なにをやっても原理的には芸術になってしまう美術館の内部とは異なって、街中の路上は、ひとたびそれが芸術的行為だとみなされないということになれば、警察の方々や街行く人びとはそれを「非芸術」などと呼んでくれようはずはなく、端的に「犯罪」とみなすことになるだろうからです。この意味では、ハイレッド・センターの活動が立ち現そうとしていたのは、「芸術と非芸術との間の断絶」というよりは、「芸術と犯罪との断絶」に由来するあわいの領域をめぐる「不在の芸術」であったとすらいえるのです。

p.213
 法廷を前にして臆面もなく「転向」したハイレッド・センターに対しては、法的闘争である以上いたしかたないとはいえ、その態度の豹変に、疑問を示す向きもあったようです。
 [……]
 たしかに、美術館を前にして「いやこれは芸術じゃないんですけど」などといっていたら、ああなるほど、芸術じゃないのか、じゃあ出品はできませんね、なんて問題は簡単に落着してしまうわけです。したがって出品者たちは、どんなに「芸術じゃなさそう」な事物を抱えてはいても、一応「これも芸術、あれも芸術」といってみるのです。

p.214
 ぼくはこの裁判の対策を相談する千円札懇談会の一員として、数回をのぞいて公判に通いつめてきたのだったが、弁護側の一貫した論旨には、じつはつねに疑念を持ち続けていた。弁護側の一貫した論旨とは、第一審での特別弁護人中原佑介がかつて書いていたように、赤瀬川の行為は芸術的行為であり、その作品は芸術作品である、だから犯罪ではないのであって、赤瀬川は無罪である、というものであった(中略)
 犯罪であることは、芸術であることを保障はしないが、弁護側の論旨のように、芸術であることが、犯罪でないことを保障するかのような発想が、芸術の<近代>を、安全に国家体制内に温存させた。それは表現の自由などというものは、そもそも人間にあるものだから憲法に規定されているのだという自明の理を、憲法に規定されているから、ぼくらには表現の自由があるのだ、みたいな転倒と見合っている。
        …………「殺人はなぜ<表現の自由>として許されていないのか」

p.240-241
 のちにアンデパンダン派が別の権威になっていったように、そこで繰り広げられているのは、美意識と美意識とのあいだの衝突、友愛に対して別の友愛を争う対決、すなわち趣味の戦闘なのである。そこでは、官展アカデミズムも、後の印象派・後期印象派も、そのような趣味を共有していると「感じる」ことによってかろうじて凝集し、そのことによって権威であったり反権威であったりする「想像の共同体」であるにすぎない。反権威はそのまま別の尺度では権威たりうるのであって、そこでは権威の解体は永遠にありえない。
 自由と平等に関しては本家本元の「アンデパンダン」が、その移植形態にすぎない「読売アンパン」のようには、自由と平等との矛盾において自己崩壊せずに機能しえたのは、(少なくとも原理の次元では)このためである。アンデパンダン展が当初より、出品作家たちによる自主的な運営にまかされていたように、それは、旧権威に対して一定の趣味判断(たとえば「印象派」)をオルタナティヴとして共有する画家たちによる、官展とは別の個人の凝集形態であった。もしも彼らが、アンデパンダンの理念である「無審査・自由出品」を字義通りに推し進めたなら、ちょうど市民革命において「自由」と「平等」とのあいだの原理的な矛盾が別の革命(社会主義)を招き寄せざるをえなかったように、アンデパンダンはその自由と平等ゆえに、趣味を共有することができず、したがって友愛によって結ばれることもない他者の多様な交通と、そこから生ずるコンフリクトによって、内側から瓦解せざるをえない。

p.260-261
 考えてみると、「世界 今日の美術展」が、一九五〇年前後から急激に増えた、海外の美術を紹介する一連の展覧会の最終形態であり、いわばその完成形態であったことに思い当たりはしないか。そしてこれらの展覧会を様式の違いにおいてではなく一連の流れのなかで捉えたとき、「サロン・ド・メ」系の「近代絵画の秀作」を伝え、アンフォルメル・ショックほどではないにせよ、それに先がけて日本の画壇に新鮮な衝撃をもたらした「現代フランス美術展」(一九五一年、東京日本橋高島屋、毎日新聞社主催)と「世界 今日の美術展」との距離は、一気に縮まって見えてくるのである。

p.262-263
 注意したいのは、端的にいって、「サロン・ド・メ」と「アンフォルメル」とを問わず、このような展覧会を開催すること自体が可能になり、そしてまたこれらが例外なく「今日の世界」を売り文句に送り出されたのは、アメリカとの講和がなされ、かりそめにせよ日本が「今日の世界」に対して政治経済上、開かれたからにほかならない(ちなみに、タピエ来日後に彼が組織した展覧会は、「世界・現代美術展」であった)。いいかえれば、長く人びとは「今日の世界」に飢えていた。
 [……]にもかかわらずここであえて、「日本現代美術」の起源をこの時期、すなわち一九五〇年前半にもとめたく思うのは、この「現代」という言葉が、「現代美術」の起源を創出すると同時に、近代の歴史を覆い隠すような働きを、積極的に担ったのではないかと考えるからにほかならない。

p.264-265
 忘れてならないのは、「こうして現実の上を素通りして」形成された「国際」的な「近代」美術、わたしの言葉でいえば「日本現代美術」が標榜する「世界」性が、前記のような「講和」と「片務条約」を潜り抜けることによってはじめて開けた「世界」であったということである。事実、これに前後して日本は、サンパウロ・ビエンナーレ(五一年)、サロン・ド・メ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、カーネギー・インターナショナル(五二年)といった、今日においてなお、「現代美術」の権威として通用している登竜門への参加を果たすようになり、日本の作家の善戦を伝える記事がジャーナリズムを賑わせることになるのだが、それがせいぜい「善戦」でしかありえないのは、日本における近代(美術)の現代性(現在)が抱え込んだ歴史的かつ根源的な「片務」性に規定されたものであり、「一般的に見て私は趣味性やサンシビリテの点では日本の作家たちがかなり洗練された高度のものをもっているという事実をこの会場でもはっきりと実感した」(柳亮)であるとか、「日本側の意志と気力と闘志は、思考や構成や色彩などの不備を補って余りあるものであると思う」(大久保泰)といった当時の発言は、日本の美術、とりわけ絵画の水準が欧米並みであることをもって至上の価値とする、現在の美術評論のゆえなき身分保証と、なんら変わるものではない。

p.276
 だとしたら、「危機的な状況をとおして変革に創造の端緒をみいだす眼」をもち、そこから「存在のもっとも原動的な核心に迫ろうとする意志」を美術の現在に見ようとした針生にとって、そのような危機と存在を両義的に兼ね備えた巨大な矛盾そのものである「近代と人間」を現象学的に括弧に入れることによって得られる「現代と物質」――これこそが宮川が批評の言語によって近代の「ひとつの危険な曲り角」から摘出したものだったが――が、なにか「火星からきた生物」のように見えてしまったとしても無理はない。いや、むしろそれは針生の視点からすれば正当ですらあったといえるだろう。

p.299
 金髪美人やパリの街を最新流行のスタイルで描く――当時はフォーヴィズムであった「最新流行のスタイル」を、ポリティカリィ・コレクトネスやジェンダー理論、お好みによってはポスト・コロニアリズムやカルチュラル・スタディーズに置き換えてみれば、事態は現在の状況となにもかわらない。いや、現在のこうした理論が、パリ時代の岡本が鋭く感じ取った「不自然さ」や「みじめ」さの構造を分析することを目的としているだけに、こうした理論をなんでも解決可能な「公式」として扱い、せいぜいのところ大がかりな「代入」にすぎない営みに精を出すことになんの「不自然さ」も「みじめ」さも感じない「現代思想」において、ことはいっそう深刻だといってよい。

p.314
 さて、このようなダイナミズムは、形式化の基底が任意であることを、選択の自由と勘違いしたアンフォルメル「以後」、「現代美術」というかたちで急速に希薄になっていくことになるのだが、すくなくともアンフォルメル「以前」においては、そのような運動は実際に活きていた。具体的には、山下菊二、勅使河原宏、桂川寛といった「パンとバラの会」の前衛美術会所属の画家たちと、「エナージ」の池田龍雄らを中心に、ここに中村宏や河原温、石井茂雄らが参加して五三年初めに結成された「青年美術家連合(青美連)」の動向などがそうであり、岡本に即してみたような「前衛」意識は、ここではいっそう社会意識を先鋭化したかたちで見出すことができる。

p.336
 針生のこの一節で肝要なのは、彼が、<密室の絵画>を敗戦後の貧困な状況下での、日本人の被害者意識から捉えるのではなく、そこに、あの戦争を生き残ったすべての人間に多かれ少なかれ共有されているはずの「汚辱」、すなわち加害者としての日本人の記憶の持続を看て取っていることにある。

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