パノフスキー『イコノロジー研究』(一九三九年)
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ニコラウス・ペヴスナー『美術アカデミーの歴史』(一九四〇年)
エルンスト・H. ゴンブリッチ『芸術と幻影』(一九六〇年)
フランシス・ハスケル『パトロンと芸術家』(一九六三年)
マイケル・バクサンドール『15世紀イタリアにおける絵画と経験』(一九七二年)
ハンス・ベルティング『中世におけるイメージと民衆』(一九八〇年)
ブルース・コール『ルネサンスの芸術家工房』(一九八三年)
国際化と学際化
・イコノロジーの波及
美術史二〇〇五:各国へ波及する美術史学
美術史二〇〇四:美術史学の拡散
・心理学的アプローチと社会学的アプローチ
美術史二〇〇二:ゴンブリッチの位置づけとメンタル・セット
美術史二〇〇四:イリュージョン
美術史二〇〇四:注文主による干渉
日本の美術史学会
柳宗玄「学会誕生の頃」、『美術史―第百五十冊記念別冊』(美術史學會、二〇〇一年)、9頁。
“……当時私が通っていた東大文学部美術史研究室でも、戦後の泥沼状態から何とか立ち上がろうとしたが、主任の児島喜久雄教授が戦後間もなく退官された(助教授であった松本栄一は戦時中に退職)。その後九州大学から矢崎美盛教授が迎えられ、研究室も漸く形を整えた。そして急速に学会創立の気運が高まった。矢崎教授は東西美術史、美学、芸術学などに豊かな学識を持たれた方として、公立私立を問わず広い分野の研究者に声を掛けられた。私はそのころ助手をしていて他の大学の若手連中と共に幹事役を仰せつかった。最初の会合は昭和二十四年頃だったと思う。和気藹々とした雰囲気の中で、早大の坂崎坦、板垣鷹穂、慶大の守屋謙二、学習院の富永惣一、日大の金丸重嶺(写真)、立教大学の辻荘一(音楽史)などの諸先生の顔が私の記憶に残っている。このとき不幸にして児島先生はすでに他界されていたと思う。こうして芸術学会なるものが創立され、やがて学報第一号が世に出た。
記憶を探れば、この会には、私たちの美術史研究室の壁一つ隣の美学研究室からは、卒業生の山際某氏以外は誰の参加もなく、竹内敏夫助教授(または講師)の姿も私の記憶にはない。私たちの学科は美学美術史学科として一つの学科を構成していたのだが。また所員の多くを私たちの学科の卒業生で占める上野の美術研究所の所員の姿もほとんどなかったように思う。あとから考えれば、他所で美学会、美術史学会の構想が芽生えていたのかもしれないが、九州から転任してこられた矢崎教授に対する疎遠感もあったようである。
その後私は海外留学のために研究室を離れ、そして思いがけずパリで矢崎教授急逝の報せを受け取った。折角誕生した芸術学会は中心を失い、残念ながらそのまま自然消滅となったようである。数年後に私が帰国した頃には、美術史学会と美学会がそれぞれ美術研究所と東大の美学研究室を本拠として活動を始めていた。ただしそれらは実質的な研究機関というよりは、研究者の連絡組織という性格が強かったようである。”美術史学会:昭和二四年(一九四九)四月創立。
美学会:昭和二四年(一九四九)一〇月頃(?)結成。同一二月趣意書配布。
cf. 表象文化論学会:平成一七年(二〇〇五)一一月設立趣意書。